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おはようございます。今日はここからです。「もし辰砂が赤かったり黒かったり、軽かったり重かったりするならば、また人間があるいはこの動物の形態に、あるいはかの動物の形態に変ずるであろうならば、さらに土用中作物が成熟したり、氷雪が土地を蔽ったりするならば、私の経験的構想力は赤色の表象によって重い辰砂を思い浮べることすらもできぬであろう。または一つの名が、あるいはこの事物に、あるいはかの事物に与えられ、あるいはまた同じ事物に種々の名が与えられることとなるであろう、もしこの点に関して、現象が自らすでに従っているところの規則がないとすれば、再現のいかなる経験的綜合も成立することはできぬであろう。」(カント『純粋理性批判(4)』天野貞祐訳、講談社学術文庫、p.170)

一般的にいえば自然の斉一性の問題ですが、我々の日常生活も経験諸科学も、自然が自然法則に従うであろうことを前提して成り立ちます。カントがいうように、もし自然が規則(自然法則)に従わないならば、いかなる認識も成り立たず、それどころか日常生活すらできないでしょう。日々の生にとっては「習慣」が根本的ですが、習慣と自然法則の間には千里の隔たり、深淵があるはずです。ですが、パースのような人はそれを無視しました。

習慣の蓋然性がなければ日常生活もできず、自然法則がなければ科学は不可能ですが、習慣や法則があるという根拠はあるのでしょうか。帰納法帰納推理、経験的事例の単純枚挙によってはそういえません。これまでずっと太陽が昇り続けてきたとしても、明日は昇らないかもしれません。それにそういう単純な帰納法、経験主義では日蝕のような例外的な事象すら説明できません。