talk

星一平さんという友人が面白い議論をしている。彼は昨日友達といーぐるに行ったんだって。そうしたら、パウエルの『ゴールデン・サークル』とリー・モーガンの『リー・モーガン Vol.3』が掛かったそうだ。両者の共通項は何でしょうか。「クリフォードの想い出」の名演奏です。http://8241.teacup.com/unamas/bbs/?

ただこの議論は必ず行き詰まるでしょう。たいへんな難問ですから、掲示板でちょっと議論して解決されるようなことではないからです。もともとの即興演奏と時間性という枠組みも難しいのに、自由意志の有無や脳生理学などの問題を追加するならば、妥当な解決が存在するはずがありません。

私も意見を書きました。

即興演奏と時間意識の関係という後藤さんの問題設定が難しいものでしたが、明星一平さんの批判は自由意志の有無、広くいえば脳と心の関係というさらなる難問を持ち込んでしまいました。この議論がどう収束するか分かりませんが、ちょっと思うのは、もし茂木健一郎がいうように自由意志などないのだとすれば、即興演奏、ジャズにおける自由とはどういう意味になるのかどいうことです。

演奏における自由といっても、現代音楽とジャズでは全く異なるでしょうね。私が知っている僅かな範囲だけでいっていいのかどうか分かりませんが、ケージなどを考えると、彼は個々人の恣意とかいわゆる個性とかを排除したようにみえます。彼の「チャンス・オペレーション」は易経などを参照していますが、要するに偶然性を導入するわけですから、個々人の個性、内面性、パーソナリティなどの問題ではなくなります。

他方、ジャズの場合は事情が異なるようにみえます。これは私の、つまり素人の意見ですから間違っているかもしれませんが、パウエルはパウエル、モンクはモンク、セシル・テイラーセシル・テイラー、サン・ラーはサン・ラーであって、彼らの個人性を排除できないと思うのです。

そうしますと、脳生理学が自由意志を否定してしまうならば、ジャズの表現の固有性というのは成り立つのでしょうか。どうでしょう。問い掛けだけに留めておきます。

ジャズがクラシックより「身体に近い」かどうかちょっと分かりませんが、例えばショパンマズルカ(これも舞曲ですね)を演奏するコンサート・ピアニストと、アドリブをするジャズ・ミュージシャン(ピアニストだということにしておきましょう)を仮定してみましょう。アドリブは譜面になく感覚でやるから、より身体的だ、といえるでしょうか。このことも問い掛けだけにしておきますが、私自身の現時点の考えは明星さんよりも後藤さんのほうに少し近いです。ですが、他人を説得できる合理的な根拠があるというわけではありません。ですから、皆さんのご意見を拝聴したいと思います。

"At The Golden Circle Volume Five", "The Return Of Bud Powell"と聴き、"Paris Sessions"というコンピレーション一枚を残して、Bud Powell全作品聴取完了。

但し、入手不可能な"Pure Genius"を除く。

ニコニコ動画を視聴して考えてくれといわれた。私にはよく分からない。古臭い人間だからね。→https://twitter.com/#!/Kanechiki/status/187486148392792065

掲示板に意見を書きました。以下。

了解しました。
ただ、妥当な解決があるのかはちょっと疑問です。
・音楽(ジャズ、即興演奏)
・科学(脳生理学)
・哲学
のレヴェルが絡み合っているからです。人類は数千年この問題を議論してきて、少しも解決していません。解決できたと思い込んだ人々は沢山いましたが、解決していませんでした。ストア派エピクロスの対立以来、この件では人類は進歩していません。もし脳において既に決定されているから自由意志は幻想だと看做すとしても、個々人に自由「感」のようなものがあるという事実は執拗に残るでしょうね。脳生理学における決定論を想定しても、多分個々人はその決定を知ることはできないでしょう。ジャズにおいて演奏者や聴衆が「自由」をもし感じるとしても、それが幻想だともいえないでしょう。ですから、難しい問題だと感じます。

「自然学者のいう運命というのは我慢できない」 というのがエピクロスの意見でしたが、自由意志はないという脳科学者の話を聞いて、我々も同じことを感じないでしょうか。エピクロスのいう「自然学者」とはストア派のことでしたが、それを「自然科学者(脳生理学者)」に置き換えても同じです。

ただ私自身は、com-post-infoがretweetしていた以下のような具体的問題のほうにより興味関心が多くあります。
https://twitter.com/#!/jojo_hiroshige/status/187555117543862274

阿部薫はもう少し生きていたら、灰野さんとロックバンドを結成することになっていたんだ。だから絶対ロックの側に来ていたはずだし、ノイズに至ったと思う。阿部薫との共演LP「オーバーハングパーティ」を残した豊住芳三郎さんが非常階段で演奏するからには、阿部薫の分も演奏してもらおうと思う。」

こういう意見には、おっしゃるとおりですね、という感想以外まったくなにもありません。「まあせいぜい、次の原発事故が起きるまでの短い間、その個人的な人生を楽しんでください。」https://twitter.com/#!/bcxxx/status/187560605400563712

人間はわかりあえないものなのですよ。ただそれだけだ。

人間にはわかりあうこともできなければ、他人を助けることもできないというのが私の結論です。

もし私のいうことが嘘だと思うなら、他人を助けることができるかどうか、ちょっと試してみればいいでしょう。

ですが、そういう私に会いたいとかいうのは、余程奇特な人だと思います。

誤解が人間のコミュニケーションの本質的な部分をなしているということに気付かない人がいるようです。

そういう人々は真正なコミュニケーションがあるとか考えますが、私はそう思いません。

それは、残念なことですが、見解の相違です。

私は悪意がある人々には悪意的な対応をするというだけのことです。

要するに意地悪をするということです。

けれども彼らは私から意地悪をされてもほんの少し苦しむか苦しまないかというくらいのことで済んでしまうでしょう。残念なことですが。

ただその意地悪というのが十年以上続く場合も稀にあります。柄谷さんの息子さんですが、彼は私を2002年に民事的に告訴すると脅迫したために、以降十年間報復され続け罵倒され続けています。彼が事実やったことの責任ですから、最後まで取ってもらわないと困ります。

私は執拗で執念深く残酷なのです。

ちょっと脅されたら十年以上報復する私は恐ろしい人間です。

そういう残念な結末を予想しなかったとしたら、彼は馬鹿ですねえ。

柄谷さん本人を滅ぼすのはちょっと難しくても、息子を滅ぼすのは容易でしょうね。勤めている会社を割り出して彼が過去にやった犯罪行為(ありとあらゆる他人への脅迫文の送付)の詳細全部を上司に通報すればいいだけです。

もしかして脅迫は時効が成立しているかもしれませんが、そういう行為をやった人が会社にそれまで通りいられるのでしょうか。私は、いられないほうに賭けたいと思います。

Bud Powell "Paris Sessions"、コンピレーション。これで"Pure Genius"を除く全作品鑑賞終了です。次は龝吉敏子、Art Tatum, Oscar Petersonのどれにしようか迷っています。Thelonious Monkもいいですね。ジャズ以外では、UA高橋竹山(初代、二代目)が聴きたいです。

柄谷さんの息子については社会的に抹殺するだけで命まで奪おうという話ではありません。彼はそのことに感謝すべきです。以前会ったとき、怒鳴るだけでなく半殺しにしておけばよかったと後悔しています。

彼に対しては、それほどに私の怒りは大きいです。

彼は誰彼構わず脅迫を繰り返していたのですから、私でなくても、いつかはやり返してくる人と遭遇したはずです。そしてそのとき、彼は終わりです。

ですから無差別に他人を脅したりすべきではないのです。

Thelonious Monk "Genius of Modern Music Volume One: 1st & 2nd Session on Blue Note"

「また、菊地さんと大谷さんが優秀な評論活動をされていることは同感です。でも、大谷さんに個人的に尋ねたら「(共著は)ほとんど私が書いています」みたいなことを言っておりましたね。」

私もそう思ってました。菊地成孔さんは論理的な文章が書けるタイプではないと思います。

「ハル・ウィルナーのThat's The Way I Feel Now: A Tribute to Thelonious Monk (columbia 1984)」

さっそく聴いてみます。

新品だと20000円以上、中古でも9000円以上ですから、ちょっと今手が出せませんね。http://www.amazon.co.jp/Tribute-Thelonius-Monk-Various-Artists/dp/B00000DNCH/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1333601965&sr=8-1

茂木健一郎については、経験科学者が科学がいえることを越えて拡張、一般化してしまう場合が往々にしてあるということでしょう。「偶有性」を含めて、それ以上のことは彼の主張を具体的に検討しなければ何もいえません。斎藤環との議論も読んだかもしれませんが、斎藤環のいうことが常に正しいわけではないでしょうね。彼はラカン派ですし、だったらラカンが妥当かどうか検討すべきですが、そうしているようには余りみえません。

明星さんがいうように「脳科学者は自由意志は無いなどとは断言していません。おそらく諸説あってまだ何も分らないというのが現状でしょう。」ということでしたら、その通り、「何も分らない」、自由があるともないとも言い切れないということなのでしょう。

星一平さんの言及した脳生理学の実験ですが、自由意志というよりもintentionに関わるのではないかと思いました。intentionは英語、フランス語、ドイツ語も全部同じ語ですが、意図とか意志のほか、志向という意味です。純粋に脳に還元できるかどうか、「心」があるかどうかは、intentionが成り立つかどうかという問題です。フッサールメルロ=ポンティのような現象学者だけではなく、ウィトゲンシュタインジョン・サールなどにとってもintentionの有無が大問題でした。intentionを仮定するならば、全ては脳だとはいえないし、逆に全部を脳の物理的・生理的過程で処理してしまうならば、intentionを排除ないし度外視できるでしょう。

カントにとってSelbstaffektion(自己触発)が単に「計算」のようなものだったということをいいましたが、コンピューターで全部「計算」が代理できるから、ではコンピューターに「心」があるといえるでしょうか。intentionの有無が問題であるというのは、そういう問いと関わっているかもしれません。語を組み合わせて文を作るとします。intentionなしでその文に意味や意義があるといえるのでしょうか。言葉だけではなく、例えば私がピアノの前に座って出鱈目に鍵盤を打ち鳴らすとします。それが有意味かどうかは、聴き手のintentionに依存するのではないでしょうか。文章でも同じですね。ウィリアム・バロウズの「カット・アップ」で出来た文が有意味かどうかはどうやって判断できるのでしょうか。そのバロウズのカット・アップは美術のコラージュからきていますが、現代美術の作品の意味はどうやって劃定されるのでしょうか。現代音楽やフリー・ジャズ、フリー・インプロヴァイゼーションはどうでしょうか。

お喋りです。http://www.ustream.tv/recorded/21610186

心、自己触発、志向(志向性)抜きに済ます方法がふたつあると思います。
ひとつは、心は脳に還元できるし、脳は巨大コンピューターに還元できるという考え方です。物理主義といってもいいでしょう。もうひとつはデリダです。ただ私自身がデリダをよく理解、納得していないので、現時点では自己触発とか志向性という立場が妥当だと考えています。