I'm a fool to want you...

https://twitter.com/#!/kova41/status/187166275397632000

「@suzuken2002  僕はNAMの経験を経た後も、柄谷が貴重な文筆家だと思っているバカですが、人を罵倒してもあの人には他者を舐めた態度を感じたことはないのです。宮台には他者を支配するか領導すべきものとして捉える舐めた態度しか感じたことがありません。官僚になれば良かったのにw」

NAMを経験した後も柄谷さんを貴重な文筆家だと思っても、馬鹿などと卑下する必要はないでしょう。
NAMが失敗したのは仕方がなかったし、NAMでどうだったかということと柄谷さんの主張、行動が妥当かどうかは別問題なのではないでしょうか。

@suzuken2002 @kova41 鈴木さんがいうとおり、もし歴史が正確に記録されて後世の人々が公平に判断すれば、真のバカは柄谷さんを否定する私のほうだという結論に到達する可能性が高いでしょうね。でも正しいかどうかが問題ではないし、もっといえば柄谷さん本人ですらないです。

@suzuken2002 @kova41 私が特に許せないのは、ここで名前は挙げませんが、少数の人々が他人を騙して平気であったということです。それは柄谷さんのことではありません。

"Golden Circle", "Budism"はBud Powellの最終到達地点でしょうね。やはり全部通して聴くと、私には後期の彼のほうが深いし好ましいと感じられます。
最後の"Return of Bud Powell"が余り良くないですから、"Golden Circle", "Budism"がいい、ということになるような気がします。
それにしても、Art TatumなどSwing Eraのjazz pianistとBud Powellを分かつ深淵は何なんでしょうかね。Oscar Petersonは彼個人の資質としてhappyだったということのほかに、やはりPowell以降のパラダイム(be-bop)に属していないのだと思います。

ありがとうございます
投稿者:攝津正 投稿日:2012年 4月 3日(火)17時15分12秒
アフォーダンスなどには私もくわしくありませんが、考えていければ幸いです。
こういうことはcom-postの掲示板に書いたほうがいいかもしれませんが、「現代即興論」とか、斜め読みですが、ちょっと好きです。「自己触発」と現代の自由即興が関係あるかどうかは分かりませんが、哲学ファンとしては「自己触発」に注目するのは嬉しいですね。『知覚の現象学』を読みましたが、そこにも「自己触発」に触れた箇所があるようですね。確かめてみると、本文ではなく原註でハイデガーの『カントと形而上学の問題』が引用されていました。「自己触発」は時間性の根源と考えられますから、それと即興演奏を結び付けて考察するというのは刺激的ですね。ただ、私はそのエッセイで触れられている音源をまだ聴いていません。sachiko Mでしたっけ? 結構有名な方の音源ですよね。菊地成孔も論じていたような記憶があります。クロスレヴューも、菊地雅章のレヴューはまだ読んでいませんが、彼のCDが届いて聴いたら、楽しみに読ませていただきます。

自己触発
投稿者:攝津正 投稿日:2012年 4月 3日(火)21時42分33秒
ただ、ブログにも引用しましたが、カント自身は「自己触発」をそれほど深遠なものと考えていなかったようなのですよ。彼の意見はこうです。「内官がわれわれ自身によって触発されるということを人々が難解だとする理由が私にはわからぬ。すべての計算作用はその例をわれわれに示すことができる。悟性はこの作用において悟性の思惟する結合にしたがってつねに内官を限定して、悟性の綜合における多様に合致するところの内的直観たらしめる。一般に心性がいかばかりこれによって触発せられるかは、各人が己れ自らにおいて知覚しうるであろう。」(『純粋理性批判天野貞祐訳、講談社学術文庫、第一分冊、p.264)

天野貞祐http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E9%87%8E%E8%B2%9E%E7%A5%90

もしカントにとって自己触発が「計算」のようなものでしかなかったとしたら、ハイデガー以降の哲学者達がそこに時間性の根源を見たのはどうだったのか、ということも考えてしまいます。現代の自由な即興演奏を自己触発からみてみる、ということができるのかどうかもよく分かりません。

知覚の現象学
投稿者:攝津正 投稿日:2012年 4月 3日(火)23時32分54秒
余談ですが『知覚の現象学』の良さは子供や若者にはなかなか分かりづらいと思います。私自身も高校、大学、大学院の頃はメルロ=ポンティがよく分かりませんでした。彼はベルクソンサルトルドゥルーズなどと違って渋いですからね。素人受けしません。ですが、あれこれ読んで妥当な言説がないか調べると、結局20世紀では現象学分析哲学しかないんですね。「フランス現代思想」はどうなんでしょうか。ちょっと分かりません。どう読んでも意味が不明なものもかなりあると思います。

『知覚の現象学』を読み返して、メルロ=ポンティには独自の言語論、表現論があることを確認しました。それはソシュールに忠実かどうかとは余り関係ありませんし、むしろそれこそ吉本とかと比べたくなりますね。それと、私が学校にいた頃から『知覚の現象学』の終わりくらいに登場する「沈黙のコギト」がよく話題にされていました。メルロ=ポンティの言語論、表現論からジャズを考察することは十分可能でしょうし、可能だから後藤さんも現にやっておられるのでしょうね。たとえメルロ=ポンティがジャズを語っていないのだとしても、否定的に語ったアドルノを除けば、ジャズをまともに語っている哲学者などいないのですから、別にいいと思います。アドルノのジャズ批判はベルクソンの映画批判と同じくらいのレヴェルですね。ヨーロッパのインテリからみれば映画やジャズがいかがわしくみえる、というくらいのものでしょう。

@kova41 鈴木健太郎さんがretweetしていたのであなたのtweetを読みましたが、NAMを経験しても著作家として柄谷さんが立派だと考えるのは別に普通ですから卑下しなくていいのではないでしょうか。著作家として立派だという点では私もあなたと同意見です。

@suzuken2002 @kova41 思惑通りにならないこともあるというのは柄谷さんとても例外ではなかったというだけのことでしょうね。>NAM 私自身も「手に職がある職人」などではありませんでしたがら、NAMに期待された人材ではなかったわけです。

@suzuken2002 @kova41 2012年の現在を第三者が客観的にみたら、自宅で『相棒』を見ている私よりも、反原発デモをやっている柄谷さん達(「長池評議会」とかを含めて)のほうが正しいというのは明らかでしょうね。

@suzuken2002 @kova41 一人に絞るなら「原」というペンネームを使っていた人だけですが、彼に腹を立てるのも、彼の理論がどうこういうよりも、感情的に不愉快だということです。民事的に告訴するとか脅されて楽しい人は誰もいないでしょう。

@suzuken2002 野田佳彦事務所、電話もメールも応じない可能性がありますよ。原発再稼働問題で連日抗議されているようですから、神経質になっているのでしょうね。私はただ有権者として(尤も、民主党の支持者ではありませんが)理性的に話し合いたいだけなのですが。

@suzuken2002 野田佳彦事務所が電話に出ないなら次の手を考える必要がありますね。永田町まで出掛けるのはしんどいですが、そうすべきかもしれません。