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自己触発(auto-affection)をドイツ語でどういうのか知りませんが、その概念史をちょっと。カントにおいては、主観は基本的には物から触発されます。物ではなく「自己」が自己自身を触発するということがカント自身に即していえるのかどうかは『純粋理性批判』をもう一度熟読しなければ分かりません。ただ、ハイデガーは彼のカント解釈で自己触発を重視しました。『カントと形而上学の問題』、『カント『純粋理性批判』の現象学的解釈』などです。後世の哲学者達はそのハイデガーに大きく影響されました。メルロ=ポンティ『見えるものと見えないもの』の「キアスム(交叉配列)」、ドゥルーズフーコー』です。デリダも、具体的にどの著作のどの箇所かまで今特定できませんが、彼のいう「差延」というアイディアの源泉のひとつが自己触発であったはずです。もし記憶違いならすみません。

どうしてハイデガーが自己触発を重視したかといえば、それが内的な時間性の根源だと考えたからです。カントにおいて、時間は内官(内感)の形式ですが、それがアプリオリにあるのではなく、その発生を問うことができるのではないか、というような考えです。そこから、超越論的構想力(想像力)の重視という発想になります。

『純理』においては、構想力よりも統覚が優位にあります。第一版では誤解の余地があったので書き改めて第二版にしましたが、しかしハイデガーは第一版に依拠します。

確かにカントは構想力について興味深い示唆をしています。彼の意見では、例えば、心のなかで円なら円を構想力によって描いてみるのでなければ、時間感覚もない、というような意味のことをいっていたはずです。(後日正確な引用をします。)そうしますと、構想力とか自己触発に時間性の根源を見たいという20世紀の人々の努力も完全に的外れではないのかもしれません。それは最終的によくわかりません。

日本人でいえば三枝博音『技術思想の探究』のカント解釈が独特で面白いです。

ですが、物から触発されて認識が成り立つというのは何となく分かる気がしますが、自己が自己を触発するというのはよく分かりません。イメージでしか分かりません。それは「認識」なのでしょうか。

しかし、プラトンからウィトゲンシュタインまで全員そうですが、彼らの認識論の基本は視覚です。像(image, Bild)というところから認識を考えています。感覚、知覚は視覚だけではないはずですが、視覚以外の五感がよく吟味されたことはないはずです。デリダが触覚について論じた本があったと思いますが。

フロイトが或る論文で嗅覚を重視し、その議論をレオ・ベルサーニが『フロイト的身体』で取り上げ直した、ということもあったと思います。

ベルクソンのimageは視覚的なものに限られませんが、それでもimageという用語を選択する時点でどうしても視覚的なものが優位であるように感じてしまいます。パースの記号(sign)の概念はもうちょっと中立的でしょう。

サルトルベルクソンを批判した理由のひとつも、ベルクソンのいうimageは余りに範囲が広過ぎるから、少し限定して使うべきではないか、ということであったように思います。(『想像力』『想像力の問題』)

サルトルの意見では、現在知覚は現在知覚です。当たり前ですが。不在の誰か、例えばピエールを想像するときに、image, imaginationを使うべきだというのが彼の考えでした。ですが、そういう議論には、想像力が「無化」するものだというような彼自身の発想が既に入り込んでいます。『存在と無』では「無化」が全面化するわけです。

サルトルのいう想像力とハイデガーのいう想像力(構想力)は全然違います。ハイデガーがいうのは、悟性と感性の知られざる共通の根としての構想力でした。カント自身は、示唆に留めています。

哲学が混乱するのは、同じ用語で同一の内容を意味していない場合が非常に多いからです。ハイデガーサルトルにおいて、想像力(構想力)の位置づけも、「存在」の理解も全然違います。だから、読者にはわけがわからなくなってしまいます。

おはようございます。今日はここからです。「いったい、表象として思惟一般のあらゆるはたらきに先行できるものは直観である、そして直観が関係以外のなにものをも含まぬ場合には直観形式である、これは、心性においてなにものかが定立せられる場合のほかは、なにものをも表象せぬゆえに、心性が自己活動によって、すなわち、かれの表象のこの定立によって、したがって己れ自身によって触発せられる仕方、換言すればその形式に関する内官以外のなにものでもあることはできぬ。」『純粋理性批判講談社学術文庫、第一分冊、p.179です。

「いかなる線もそれを思考において引いてみなければ思惟せられぬ、いかなる円も描いてみてはじめて思惟せられる、空間の三方位は一つの点から相互に垂直線を引いてみることによってのみ思惟せられる、のみならず時間でさえも直線を引く際に(直線は時間の外部的形象的表象として認められることができるが)多様の綜合せられるはたらき、すなわち内官が連続的に限定されてゆくはたらきだけが、したがって内官におけるこの限定の連続だけが注意せられる場合にのみ思惟されるのである。主観のはたらきとしての(客観の限定としてではなく)運動が、したがって空間における多様の綜合が──もし空間が捨象せられて、内官をその形式にしたがって限定するはたらきのみが注意せられる場合には──継起の概念すらもはじめて産出するのである。すなわち悟性は多様のかくのごとき結合を内官において見出すのではなくして、内官を触発することによってそれを産出するのである。」(p.261-2)

「したがってわれわれが外官に関して、われわれはそれによってただわれわれが外的に触発せられるかぎりにおいて客観を認識する、ということを許容するならば、同様に内官についても、われわれはそれによってわれわれ自らを、ただわれわれが内的にわれわれ自らによって触発せられる相においてのみ直観する、換言すれば、内的直観に関してわれわれは自己の主観を単に現象としてのみ認識し、それ自体としては認識せぬことを承認せねばならぬ。」(p.263)

「内官がわれわれ自身によって触発されるということを人々が難解だとする理由が私にはわからぬ。すべての計算作用はその例をわれわれに示すことができる。悟性はこの作用において悟性の思惟する結合にしたがってつねに内官を限定して、悟性の綜合における多様に合致するところの内的直観たらしめる。一般に心性がいかばかりこれによって触発せられるかは、各人が己れ自らにおいて知覚しうるであろう。」(p.264)

三枝博音『技術思想の探究』(こぶし文庫)のカント解釈は面白いです。彼はAnschauungを直観ではなく「即けて観ること」と訳すことを提案します(p.124)。Anschauungには直接という意味は少しもないからだそうですが、本当なのでしょうか。そして彼の意見では、Anschauungはzeichnen(描く)ところに成立するものだということですが、そうなのでしょうか(p.128)。彼は構想力とか想像力と訳されるdie Einbildungskraftを「形像を描く力」と訳すことを提案します(p.129)。einbilden(形を描く)ところにでなくてはAnschauungはないといいますが、そうでしょうか(p.136)。

"Bud Powell '57"
"Bud Powell's Moods"
Bud Powell "The Lonely One..."

「時間の有するこうした二重の性格、つまり、時間は主観に、自我に、われわれの自己に、空間よりも一層根源的に帰属しているということ、しかも、こうしたより一層根源的な主観性にもかかわらず、なお時間はまさしく一切の現象の形式であるということ──時間の有するこうした二重の性格を、われわれは眼差しのうちに保持しておかなくてはならない。この二重の規定を考慮することによってのみ、カントの眼に最終的に時間を自己触発(Selbstaffektion)として見えさせた時間解釈を開明することに成功しうるのである。」ハイデッガー全集 第25巻『カントの純粋理性批判現象学的解釈』(石井誠士、仲原孝、セヴェリ・ミュラー訳、創文社)、p.160。

後で気が向いたら引用しますが、ジル・ドゥルーズフーコー』(宇野邦一訳、河出書房新社)では、p.169以下です。但し、「自己情動」と訳されています。確かにaffectionには情動という意味もありますが、カント、ハイデガーの文脈ではSelbstaffektion, auto-affectionが自己触発と訳されるのを宇野邦一が知らなかったはずはないのですが。ジャック・デリダ『声と現象 フッサール現象学における記号の問題への序論』(高橋允昭訳、理想社)では、p.155以下です。ちなみにフッサールソシュールの比較はp.91-2ですが、com-postがいうような「実体論から関係論へ」などという空疎な議論ではありません。

Bud Powell "Swingin' With Bud"

「やがてパウエルは精神的に不調を訴えるようになり、1950年代になると何度か精神病院を出たり入ったりしている。当時の仲間デューク・ジョーダンによれば、人種差別が原因で白人警官に警棒で頭を殴られ、その肉体的なショックと精神的なショックが重なって精神に変調を来したとのことだが、真偽のほどは定かではない。」(小川隆夫)──パウエルが精神病院に入院するようになったのは1950年代からではなく1945年からのはずです。白人警官の暴力はいかにもありそうな話です。マイルス・デイヴィスも殴られたそうです。1940-50年代のアメリカ社会は野蛮だったのです。

読了:モーリス・メルロ=ポンティ『知覚の現象学』(みすず書房)、服部裕幸『言語哲学入門』(勁草書房)。『知覚の現象学』が既に「自己触発」に言及していたのを確認できたのは良かった。が、本文ではなく、原註でハイデガーの『カントと形而上学の問題』からの引用がなされている。

読了:R.H.ロウビンス『言語学史(第三版)』(中村完・後藤斉訳、研究社出版)。

the Bud Powell trio "Strictly Powell"

Bud Powell "Time Waits"

読了:岩波講座:言語の科学『言語の科学入門』(岩波書店)、上原聡・熊代文子『音韻・形態のメカニズム』(研究社)。

読了:東照二『社会言語学入門』(研究社)。

読了:エルンスト・カッシーラー『認識問題 近代の哲学と科学における(2-1, 2-2)』(須田朗・宮武昭・村岡晋一訳、みすず書房)。

"Sonny Stitt, Bud Powell, J.J.Johnson"

読了:ドナルド・デイヴィドソン『真理・言語・歴史』(柏端達也・立花幸司・荒磯敏文・尾形まり花・成瀬尚志訳、春秋社)。

読了:カッシーラー『シンボル形式の哲学(1)-(4)』(木田元・生松敬三・村岡晋一訳、岩波文庫)。

"The Bud Powell Trio"

Bud Powell "The Scene Changes". 「彼がそうなってしまったのには、1945年に起こった事件が関わっている。1924年9月24日に生まれたバドは、幼い頃から天才ぶりを発揮し、40年代前半にはすでに完璧なテクニックを身につけ、クーティ・ウィリアムスのオーケストラで名を上げると同時に、セロニアス・モンクに可愛がられて52丁目に頻繁に出入りし、ビ・バップ・ピアノの創始者としてのその神がかった才能を発揮することになったのだったが、1945年のある日、警官に頭を殴打され、それから間もなく意識喪失等の症状を呈するようになる。さらに、精神分裂の兆候も現れ、1947年11月から翌年の10月まで、そして49年にも3ヶ月の入院を余儀なくされたバドは、病院で電気ショック療法を施されて以降、薬剤とアルコールの相乗効果もあって、次第に以前の閃きに満ちたフレイジングを失っていく。」(大村幸則)

フッサール『論理学研究』(みすず書房)を第二分冊の途中まで読みましたが、馬鹿らしくなってやめました。『相棒』の再放送を視聴して感銘を受けました。

『相棒』は快楽殺人者というか、わけのわからぬ動機で次々に不倫相手を毒殺する女の話です。『羊たちの沈黙』以来そういうドラマが増えました。

その女は父親が好きでしたが、相手にされなかったので毒殺してミイラにしてしまいました。ちょっとおどろおどろしい設定ですね。そして「パパじゃない。贋物だ」とかいう理由で不倫相手を次々に殺してしまいます。

連続殺人や大量殺人の犯人を一種の怪物として描く映画やドラマが増えましたが、実際の殺人者は別に普通の人々ではないでしょうか。

加藤智大も普通だと思います。金川真大はちょっと変わっていると感じます。宮崎勤宅間守は彼らの特殊な状況を考慮しなければならないでしょう。

長崎で連続殺人を犯した「てるくはのる」は警官から追われてビルの屋上から飛び降りて死んでしまいましたから、彼がどうしてそういうことをやったのか話を聞くことはできません。

長崎じゃなくて京都でしたね。http://homepage1.nifty.com/okonomigaki/200012/a5.html

長崎の事件の犯人は中学生でした。http://barbizon.fc2web.com/nagasaki-shun.html

Bud Powell "Paris Jam Session"

"Dizzy Gillespie & The Double Six Of Paris" (With The Bud Powell Trio)

アントナン・アルトー『神経の秤・冥府の臍』(粟津則雄・清水徹編訳、現代思潮社)、これはちょっと凄い。

Bud Powell Trio "Budism"