近況アップデート

おはようございます。おはようというには遅過ぎる時間帯になってしまいました。理由はふたつあります。ひとつは、6000枚のCD棚を全部引っ繰り返して橋本一子さんの"Arc'd-X"を捜索しましたが、発見できなかったからです。もうひとつは、千葉銀行に行って金銭の出し入れをしてきたからです。クリック証券からの金が私の千葉銀行の口座に入りましたので、それを母親(攝津照子)の口座と私の口座に分配しました。私は株式投資の収入で生活していますが、ジャズ喫茶の経営は大変であろうと推測するのと同程度に経済的には綱渡りです。今日も本当は売りたくないですが、株を売らなければ生活費や借金返済の金銭が確保できません。

それはいいとして、今日は加賀野井秀一ソシュール』を検討しますが、その前にちょっと一般的なことを書いておきます。

私が知る限り、現代日本で、感想とか批評とは別個の、ジャズの美学、理論、ジャズ学などは確立されていません。濱瀬元彦さん、菊地成孔さん、大谷能生さんらが努力しているのだとしても、やはりそういうしかないと思います。批評は存在しています。後藤雅洋さんの『ジャズ耳の鍛え方』や中山康樹さんのMiles Davisに関する一連の著作などが存在しています。けれども、原理的な考察は少ないはずです。もしあるならば、そして出版されているならば、図書館に入るますから私も知るはずです。ですが、そうなっていません。

最初に濱瀬さんへの疑問を書きます。"The End Of Legal Fiction"のライナーノーツでの鼎談で彼は、ラカン派の藤田博史の『精神病の構造』に依拠し、「シニフィアンシニフィアンの連結がシニフィエ」というラカンの意見(でも、これが本当にラカンの意見なのかは分かりません)を見て「あ、これだ!」と思ったと語っています。それを『読譜と運指の本』で使ったそうです。けれども、「シニフィアンの連鎖」がソシュールそのものからは出てこないラカン独自の概念であることにも、ラカンのいうシニフィアンソシュールのいうシーニュに近い(加賀野井秀一、前掲書)ということには全く気付いていないようです。そうしますと、ソシュールを参照しても論が立てられなかったが、ラカンなりラカン派(藤田博史やフランソワーズ・ドルト『こどもの精神分析』)を参照したら論が立てられたのはどういうことなのか、よく自問する必要があるはずです。彼が論を立てられたのは、ラカンソシュールを改竄したからなのではないでしょうか。そしてもし、そのことに気付いていないとすれば、ちょっと深刻だと思います。

それから、濱瀬さんの議論はあくまで「楽譜が読める」ということに限定されます。それを「去勢」、「象徴秩序の参入」と捉えるわけです。でも、楽器の演奏、或いは音楽の聴取の問題は手付かずのままです。

濱瀬さんへの疑問は以上二点です。まず、ラカンに依拠することに疑問を感じていないし、ソシュールラカンの相違にも注意深くありません。ラカンの理解として正確かどうかも分かりません。さらに、彼の問題は読譜だけですから、演奏、聴取のレヴェルを扱えません。

私が読む限りでは大谷さんの議論が一番厳密だと思います。ですが、はっきりしたことはいえません。

フルート奏者の大谷さんから、アメリカのアカデミズムには実証的なジャズ研究があるという話を聞きました。アメリカではジャズ科の学生は実技だけでは卒業できず、研究論文を書かないと卒業できないそうです。恐らくそういうこともあるのでしょう。ただ私の疑問は、もしアメリカに実証的な研究があるならば、どうして日本に紹介されないのか、入ってこないのかということです。ただ単に大学内部で研究されているだけで一般読者向けて本が売られていないのかもしれませんし、本は出版されていても、難し過ぎるとか売れないだろうとかいう理由で日本語に翻訳されないのかもしれませんが、ちょっとどういうことなのか分かりません。英語で読めばいいのでしょうが、資金、語学力、時間が無限にあるわけでもありません。

「実証的」研究といっても、実証するためにはデータ、事実が必要ですから、何かを使っているはずです。ジャズの場合考えられるのは、楽譜と音楽、CDです。ただ、○○というアーティストの××というCDのこれこれの箇所を引用して論じたい、といっても、本から引用して論じるよりも技術的に困難なはずです。現代はコンピューターがありますから、音源を取り込んで、その音源の特定箇所を参照可能かもしれませんが、推測の域を出ません。

実証研究以外のジャズ学は確立されていないはずです。映画学と比べますと、映画学は言語学ソシュールやイェルムスレウ)、記号学(パース)、記号論(バルトやエーコ)、現象学フッサールメルロ=ポンティ)、精神分析フロイト、クライン、ラカン)を参照しています。類比するならば、同様の作業がジャズでも可能かもしれません。ですが、言葉と音、音楽を同一視してしまうことも難しいでしょう。楽譜のレヴェルでも、演奏や聴取のレヴェルでも困難でしょう。でもそういうならば映画も言語ではありません。

ちょっといえば、ガタリという人は素人でしたがちょっと異常なまでの言語学マニアでした。その彼の意見は、シニフィアン記号論言語学のことです)以外の記号論を確立したいということでした。例えば、遺伝情報、DNAを考えますと、それもテキストだといえても、でも人間の言葉とは違います。それは生物学的な実在であり、自然的なコードです。ですから、そういうものを扱うのにはシニフィアン記号論言語学)以外の記号論が必要になります。同様に金銭の流れ、金融、資本などを記号と捉えるとしても(例えば、株式相場のグラフは或る種の記号です)、それは言葉、言語とは違います。また、数式や物理学、力学の法則、楽譜を考えても、言葉と同一視できません。ガタリ自身の理論がどうみてもトンデモだとしても、そういうものにシニフィアン記号論以外の記号論が必要なのではないかという意見を無視できません。楽譜だけではなく、演奏や聴取もそうではないでしょうか。例えば、CDやLIVEでのジャズの音を聴いて解釈するということも、シニフィアン記号論言語学)だけでは捉え切れられないのではないでしょうか。

ここまで申し上げて、今日の内容に入っていきます。加賀野井秀一『知の教科書:ソシュール』(講談社選書メチエ)の読解です。本に沿って内容を見ていきます。

ソシュールは、いわゆるソシュール言語学を確立するまでは、従来の言語学、比較言語学をやっていました。その事実をまず踏まえる必要があります。

ソシュールにとっては個別言語の実証的な研究が一番楽しかったのですが、それでも、言語とは何かという言語の謎が彼を捉えてしまいます。彼は従来の言語学の術語、概念には有意味なものが一つもない、と考えます。

ソシュールの死後、弟子のシャルル・バイイとアルベール・セシュエが『一般言語学講義』を編集しましたが、それには問題がありました。ロベール・ゴデルという人が、1957年に、『一般言語学講義の原資料』を出しますが、そうしますと、バイイとセシュエによる編集の歪曲が明らかになりました。

加賀野井秀一がいうには(p.65)、「言語学の独自にして真正なる対象は、それ自体としての、また、それ自体のための言語(ラング)である」というのも、「言語は形相であって、実質ではない」というのも、全てはバイイ=セシュエによるでっちあげであったそうです。

さて、ソシュールの科学の内容に入ります。

ソシュールは言語を3つのレヴェルに分けました。「ランガージュ」「ラング」「パロール」です。「ランガージュ」はあらゆる言語活動の総称です。「ラング」は「言語体(系)」であり、例えば日本語、英語などです。「パロール」は個々人が喋り、或いは書く具体的な言語、言葉です。ソシュールは、言語学の対象は「ラング」だと考えました。

「ラング」を考えましても、「通時態」「共時態」に分岐します。前者は、時間軸に沿った捉え方、後者はその横断面による同時代的な捉え方です。そしてソシュールは、共時態を重視します。

共時態は同時代的に一つの体系(システム)をなしています。体系のなかにある個々のエレメントは「辞項(テルム)」ですが、個々の辞項は他との関係においてあるだけです。このことをソシュールは、「示差的(ディフェランシェル)」「対立的(オポジティフ)」「関係的(ルラティフ)」「虚定的(ネガティフ)」と表現します。

ラングの体系のなかで虚定的(ネガティフ)に存在している辞項=言語記号です。言語記号は、二つの面からなる二重の存在です。その一方がシニフィアン、他方がシニフィエであり、その全体が「シーニュ」です。

加賀野井秀一の意見では(p.93)、シニフィアンシニフィエの関係は、言葉と物の関係ではありません。ソシュールが疑ったのは、素朴実在論、言語名称目録観でした。彼はこういいます。「あらかじめ確定された諸観念などというものはなく、言語が現われないうちは何一つ分明なものはない。」(p.97)

さて、そのようにいうソシュールにとって、言語記号の第一原理とは、恣意性でした。「言語記号は恣意的である」、これが彼の意見です。「妹」の観念と、フランス語のs-o-rとには内的関係はありません。

彼にとって、言語の出現によって、思考の王国も音の王国も明確な形を持つのだということになります。

ここまでがソシュールの思想で、ここからは後継者達です。

イェルムスレウとそのコペンハーゲン学派は、形式化を徹底します。p.123の議論は私には要約できません。が、重要なのは、彼らがシニフィエの構造的分析も企てたことです。音韻論者達がシニフィアンを分析して「音素」にまで到達できたから、シニフィエの側でも同じことができるのではないか、と考えたということです。イェルムスレウは「内容素(プレレーム)」を考えました。

彼によれば、牝馬は牝+馬です。馬+仔で仔馬、牛+仔は仔牛です。自動車は車+エンジン動力+四輪+人間運搬です。そういうことでうまくいったのかというと、そうではなかったようです。加賀野井秀一の意見では(p.127)、去勢された牡はロバにも豚にも当て嵌らないし、ラバには仔の内容素がなく、ほろほろ鳥には牡の内容素すらないそうです。シニフィエの側ではシニフィアンの側ほど確固としたエレメントは取り出せないというのが加賀野井秀一の結論です。

アンドレ・マルティネの機能主義の学説の中心は「二重分節」です。「彼」を「か」と「れ」に分析してしまえば、もうそれは記号ではありません。ただの音です。「彼」はぎりぎりのところで記号とされるもの、記号の最小単位ですが、それがマルティネのいう「記号素(モネーム)」です。言葉を記号素に分割するのが「第一次分節」、その記号素を例えば「か」と「れ」のような音素に分割するのが「第二次分節」で、あわせて「二重分節」です。

ラカンがいう「無意識は言語のように構造化されている」というときの「言語」はラングではなくランガージュです(p.158)。彼にとっては、シニフィアン入れ子状の連鎖をなします。シニフィアンが何らかのシニフィエに帰着したなら、そのシニフィエシニフィアンとしてまた別のシニフィエに向けられる、ということが無限に続きます。このラカンシニフィアンが、ソシュールのいうシーニュそのものだというのが加賀野井秀一の意見です(p.161)。

これで『ソシュール』の要約は終わりですが、巻末の文献案内が必要です。以下を読む必要があります。

フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義』(改版)小林英夫訳、岩波書店、1972年
Ferfinand de Saussure, Cours de linguistique generique, edition critique preparee par Tullio de Mauro, Payot, 1972
トゥリオ・デ・マウロ『「ソシュール一般言語学講義」校注』山内貴美夫訳、而立書房、1976年
フェルディナン・ド・ソシュールソシュール講義録注解』前田英樹訳・注、法政大学出版局、1991年
ソシュール言語学序説』山内貴美夫訳、勁草書房、1971年
フェルディナン・ド・ソシュール『一般言語学講義 第三回講義』相原奈津江・秋津伶訳、エディット・パルク、2003年
前田英樹編・訳・著『沈黙するソシュール』書肆山田、1989年
G.ムーナン『ソシュール』福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎訳、大修館書店、1970年
丸山圭三郎ソシュールの思想』岩波書店、1981年
丸山圭三郎ソシュールを読む』岩波書店、1983年
丸山圭三郎ソシュール小事典』大修館書店、1985年
言語哲学の地平』(責任編集 加賀野井秀一前田英樹立川健二夏目書房、1993年
立川健二『〈力〉の思想家ソシュール書肆風の薔薇、1986年
立川健二・山田広昭『現代言語論』新曜社、1990年
J.カラー『ソシュール』川本茂雄訳、岩波書店、1978年
フランソワーズ・ガデ『ソシュール言語学入門』立川健二訳、新曜社、1995年
E.F.K.ケルナー『ソシュールの言語論 その淵源と展開』山中桂一訳、大修館書店、1982年
H.A.スリュサレヴァ『現代言語学ソシュール理論』谷口勇訳、而立書房、1979年
エミル・バンヴェニスト『一般言語学の諸問題』岸本通夫訳、みすず書房、1983年
ジャック・デリダ『根源の彼方に グラマトロジーについて』足立和浩訳、現代思潮社、1972年
R.ハリス、T.J.テイラー『言語論のランドマーク』斎藤伸治・滝沢直宏訳、大修館書店、1997年
加賀野井秀一『20世紀言語学入門』講談社現代新書、1995年