近況アップデート

私が書いた「境界線」という意味がよく分からないというコメントがありましたが、簡単なことです。例えば私であれば、十年前のNAMを批判することで自分の可能性を全部使い切ってしまいますから、それ以上のことやそれ以外のことは一切何もできない、というようなことであり、確かにそういうことは残念な結果かもしませんが、どうすることもできないと思います。

未来とかその後の人生がある人々はそれを生きればいいでしょうが、私にはありませんでしたので、過去という次元しか存在していません。

私は孤独に生きていますが、たまに「いーぐる掲示板」などに行っても、喧嘩になるだけですから、無意味だと感じます。私としても、ああいうことはいいたくありません。

私が腹が立つと黙っていられないのも、しょうがないでしょう。

(1) 私はcom-postについて、自分が知る、考える全てを誠実に記しました。それをどう捉えるかは、後藤さん、miyaさんなどcom-postの人々の自由です。ジャズと関係ないから無視してもいいでしょう。とにかくどうしようと(或いは何もしまいと)完全にあなたがたの自由だというだけです。

(2) 後藤さんの話は二重三重の意味で変です。(a) 私は哲学なり理論のことをいいましたが、後藤さんはジャズの話にすり変えました。(b) 私が言及したのは大西順子への後藤さん、林さんなどcom-postの連中の批判でしたが、後藤さんは大西順子がどうかということではなく、ジャッキー・バイアードをどう評価するかという話にすり変えました。(c) ハル・ウィルナーの『Weird Nightmare : Meditation On Mingus』(Columbia)、ポール・モチアンの『Garden Of Eden』(ECM)を持ち出した意味も不明です。「お前はこれを知らないだろう」ということでしたら、事実知りません。そして、ただそれだけです。

私はそういうことに疑問ですが、でも別にそういうことでも構いません。疑問に感じたことを申し上げて指摘させていただいただけですから、それ以上のことは全く何もありません。後藤さんは感情的になるな、といいますが、私が上記(a) (b) (c)を指摘するのが感情的なのでしょうか。私は完全に論理的だと思います。残念なことですが、見解の相違です。

結局、他人と関わっても、こういう結果になります。

そういうことは残念ですし、残酷です。

だから、Facebookのウォールやはてなダイアリーを独りで更新しているほうがいい、ということになります。他人と話しても喧嘩になりますから。

変な投稿が散見されますが、ご覧の通りこういう性格なので、私は敵が非常に多いのです。
恐らく十年前のNAMの連中で、2ちゃんねるで執拗に書き続けている人々でしょう。
私は2ちゃんねるを閲覧しませんので、いーぐる掲示板に書き込んでいるのでしょう。
そういうことは私の個人的事情、個人的関係であり、後藤さんはじめいーぐる掲示板の人々とは無関係ですので、申し訳ないと思いますが、でも、残念ですが、私の力ではどうすることもできません。彼らに書くのをやめるように無理強いする力も権利も私にはないのです。

ちなみに、そういう人々が嘲笑している、「攝津正は大西順子が好きである」「攝津正はCafe LETSの経営に失敗した」というようなことは完全に事実です。それは認めます。でもだから、後藤さんに嫉妬しているというようなことは全くありません。念のため申し添えておきます。

彼らが嫌がらせを続けても私を黙らせることが絶対にできないことだけは確実です。他人の記憶を書き換えてしまうことはできないというだけの話です。

彼らは滅びればいいし、地獄に堕ちればいいのです。彼らがそうなっていないのは、ただ単に2ちゃんねるで書いているだけだからであり、もし現実の私に会えば、殴られたり殺されるでしょう。そういうことです。

Art Blakey, Bud Powell, Barney Wilen, Wayne Shorter, Lee Morgan "Live Recording At The Theatre Des Champs-Elysees Jazz Promotion Recording" ("Paris Jam Session").

Paris Jam Session

Paris Jam Session

彼らは私から「地獄に堕ちろ」といわれても仕方ないだけのことをやりました。柄谷さんはいうまでもないし、柳原さん、飛弾さん、蛭田さんは柄谷さんの愛読者だったというだけでした。西原さんは「"L"はQを潰すためにでっち上げた」と私に向かっていって平気でしたし、美容師の後藤さんは「不正高額取引」等を散々やった挙句自分は「英雄」だとかいいました。吉永さんはNAMと関係ない人や、NAM会員でも柄谷さんに従属しなかった人を残酷に罵倒しました。柄谷さんの息子さんは「民事的に告訴する」と私を含む多くの人々を脅迫しまくって平然としていました。そういう連中を私が憎むのは当然です。

彼らは面倒臭いので、全部なかったことにしたかったのです。だから、「祭り」とかいって全部ぶっ壊した挙句、NAMの資産(金銭)を含め全部消費してしまおうとまでしました。勿論そんなことはできませんでしたが、そういうことがろくでもないし穢らわしいというのは事実です。

彼らが自分自身(個人)がなかったことにしたかっただけなら、ただ単にNAMやQをやめればよかっただけですが、彼らは他人を解放する、救済するのだなどという勝手な思い込みで全てをぶっ壊すという選択をしました。そのことで十年後に私からいやなことをいわれても自業自得です。

柳原さんが稀に見る善人だとしても、西部さんが非人間的だったから「少なからぬ悲惨な経験」が生じたのだというようなことはあり得ません。柄谷さんが西部さんやQに「愛情」を持っていたから真にヒューマンであるというような絶望的な結論に到達したのは、彼自身が柄谷さんに愛情を持っていたというだけのことです。

NAM代表の田中さんは西部さんへの怨恨は一切ない、ということでしたが、副代表の柳原さんは違いました。彼は西部さんに100回以上(つまり、無限回)死んで欲しかったのです。ここまでの憎悪に至るということは通常、考えられません。しかも彼はNAMの副代表という責任ある立場なのに、柄谷さんなどNAM会員の悪を少しも指摘できないのです。それはどうかしているといわれてもやむを得ません。

柳原さんはそもそも80年代から柄谷さんと親しいような人ですので、会って直接話し合えば分かり合えるという甘い幻想を持って柄谷さんに実際に会いに行きましたが、柄谷さんの口から漏れてきたのは「どうしてみんな自分の気持ちを分かってくれないのか」というようなどうしようもない話だけでした。

柄谷さんが京都南無庵で徹夜で西部さんを罵倒しても従わなかったから、ありとあらゆる嫌がらせをすることにした、というような極私的なことが他人に分かるはずがないというのが、どうしようもなく情緒的な文学者である柄谷さんには理解できなかったのでしょう。彼は論理、理論などを誇りますが、吟味するとそれほど合理的な内容はありません。「自分の気持ちを分かってほしい」とかいう話なのです。

NAM末期の柄谷さんのメールや電話での口癖は「もっと軽く考えろ」ということであり(彼はアパートの部屋を引っ越すように簡単に地域貨幣も引っ越せばいいという意見でしたが、でも「L」は実在しませんから、誰も存在していない部屋に引っ越して住むことはできません)、「私のいうことは論理的である」ということであり(少しも論理的ではありませんでしたが)、「責任なら西部一人が取ればいい」ということでした(彼は岡崎案で2年やってうまくいかなかったら「岡崎に腹を切らせる」といっていましたが、2002年の段階でQで1年やって思う通りにならないから西部さんに無理矢理腹を切らせてみた、というようなことなのでしょうか。でもNAMがうまくいかないのは西部さん、岡崎さんのせいだけではないはずなのに、自分に責任があるという考えだけは絶対に拒否するのが柄谷さんです)。

問題や障害に遭遇したら、適当に任意の不運な誰かに全責任を押し付けて「腹を切る」のを強制するが(西部さんのような腹を切りたくない人にまで切腹を強制してしまうが)、最高責任者の自分には少しも責任はないと考えてしまうような、そういう人の組織であるNAMが崩壊したのは必然だしむしろ妥当なことです。

NAMはあれほどつまらないものであっても、それでも、各人が自由意志で入るだけでしたから、最終的に全部が全部柄谷さんが思うようになるような組織でもありませんでした。ですから、NAM解散後、柄谷さんが自分に本当に忠実な連中だけを集めて「党」を作ろうとしたが挫折したという話を柳原さんから聞きましたが、挫折して良かったと思います。そんな「党」には、もしかしたら飛弾さんは入党してしまうかもしれませんが、柳原さんや私は入る気がないし、もしそんな「党」ができていたらNAM以上の悲惨や害悪を社会に垂れ流す公害になっただけだったであろうというのは絶対に確実です。

NAMに限らず恣意的に誰かに全責任を被せてしまうのは柄谷さんの悪い癖です。50年代のアソシエーションの可能性が頓挫したのは全部吉本隆明が悪いとかいう話になりますし、『世界共和国へ』の頃は20世紀の悲惨な世界史的経験の全部がトロツキーのせいだという話でしたが、客観的にいってそういう誰か一人が悪いはずがありません。吉本一人に全部のアソシエーションをぶっ潰す力などあったのでしょうか。