2012年2月10日:ジャズ評論家

油井正一の話をすれば、それ以降のことは知らないが、小曽根真くらいまでは日本のジャズミュージシャンを支援することをやっていたようだ。秋吉敏子アメリカでの活動に行き詰まって一時帰国したときも、ソロピアノアルバムを作るのを助けているし、ナベサダのそばにもいたし、山下洋輔とかフリージャズの人のそばにもいたし、小曽根真には性急にプロデビューするよりバークリーでじっくり勉強したほうがいい的なアドヴァイスをしたようだね。油井さんが亡くなったのって何年だっけ? よーわからんが。彼以降同じような活動をやっている人っているのかな? 間章阿部薫らと同伴したが、余りにも若死にしてしまったしね。今時の批評家先生は否定することが批評家の任務と思ってる方も多いようで、私はそういうのは嫌いだね。いーぐる後藤さんやその取り巻きの連中(コンポスト)がいかに貶そうと、大西順子バロック』が名盤だという私の意見は変わらない。

文芸批評家に喩えれば、柄谷・蓮實は村上春樹を全否定することが自分の批評家としての任務と思っていたんだよね。だけれども、今時の若い批評家で村上春樹を否定する人などいない。つまり、○○を否定することが批評家の任務、とかいっても、時代によって変わってしまうようなものなんだったら、それって意味あるのか?というようなことだけれど。

昔のジャズ批評家といえば山下洋輔の盟友だった相倉久人がいるが、私は彼が嫌いなのね。『現代ジャズの視点』だったか、彼の批評集というかエッセイ集をその昔、読んだんだが、彼の関わっている店だかにローランド・カークが演奏させてくれとやってきたが冷たく断った話とかを書いてるんだが、何様だか知らないが、演奏くらいさせてやれよ、なんて不寛容な、と思った。というか、相倉さんって特に理論的内容も皆無だし、豊富な経験とか知見で読ませるタイプでもないし、ただ単に雰囲気的に60年代の日本のジャズにマッチしたというだけの人でしょう。つまらないよ。後にジャズに厭きてロック評論家になった。

植草甚一のジャズエッセイシリーズとかあったが、彼は英語に堪能なだけで批評性はないみたいなのがいーぐる後藤雅洋さんの評価みたいだけど、それでもいいじゃん。植草甚一の文章、文体面白いし。自分でジャズベースの練習にも取り組み、ミンガスが来日したら熱心にベースの話題で盛り上がるとか微笑ましいよ。

植草甚一を読むと批評性がどうのというのは分からないが、この人はジャズ好きなんだなあ、というのは伝わってくる。平岡正明のパーカー本、マイルス本もそういうタイプですね。

植草甚一平岡正明はジャズの専門知識については見劣りするかもしれないが、文章はそのへんのジャズ批評家先生の百倍は面白いよ。菊地成孔の一連の著作は面白いが彼は「ジャズ批評家」じゃないし。

植草甚一とか平岡正明ってのは物書き、文筆家だから文章のプロでしょ。読ませる文章を書く。ジャズ批評家先生連中の文章は退屈でつまらないよ。ご自身が自負するほど論理性もない。いーぐる後藤さんにせよ、メルロ=ポンティフーコーがどうのとか言ってるが、素人がしょうもない牽強付会しているとしか思わないね。彼らがやっているcom-postにせよ、アーリー・ジャズのこととかよくここまで細かく調べるねえ、とは感心するが、しかしそれだけだ。

いーぐる後藤さんの理屈を乱暴に要約するとこうなる。これまで自分はメルロ=ポンティに触発されて現象学をベースにやってきた。ところが最近(90年代くらいから)そういうやり方では理解、了解できないようなジャズそのものの深い変容が生じてきた。そこで「フーコー的切断面」なるものを考えるに至った、と。私はそういう議論に接しても、そんな安易なものなのかねえ、としか思いませんが。

フーコーだったら言表(エノンセ)って概念が彼の立論の根拠だったが、音楽、ジャズで対応するものあるの。なんもないでしょ。ジャズの根本的な変容が生じたとかいうのも後藤さんの直感でしかないでしょ。もっといえばなんの実証的な根拠もないでしょ。フーコーの議論は、言語の現実性というレヴェルでだけれども、唯物論的なものですよ。つまり、資料のなかで実際に「言われたこと」に根拠がある。そこから彼は、例えば臨床医学的な知の誕生を語っている。そういう厳密、緻密な議論と、突き詰めればただの感想、印象でしかないものを同列に語るべきではない。

ジャズってそれこそニューオリンズの昔から、めまぐるしくスタイルが変遷し続けてきたわけじゃん。今回の変容なるものがそれまでとは全く異質な決定的な切断だっていう実証的な証拠でもあるんですか。なんもないでしょ。感覚、感性だけで言ってるだけでしょ。

フーコーが取り上げた科学ってのは、精神医学(『狂気の歴史』)、臨床医学(『臨床医学の誕生』)、人文諸科学(『言葉と物』)、性科学(『知への意志』)で、バシュラールやカンギレムのように自然科学、精密科学(物理学や生物学)ではないから、当然、科学性(学問性)の条件、というか敷居は低い。しかし、フーコー風にいえば、それらが、いかにいかがわしいものであれ、真理=真なる言表を生産する装置であったということには変わりはない。真理の生産、真なる言表の生産、もっといえば真/偽というこの区別、分割そのものの生産が追求される課題であった。というようなことからみると、音楽、ジャズで同じことはいえるのか。スタイルが変遷しても、別に真なる音楽家、正しい音楽家とそうではない音楽家がいるということにはならない。依然ニューオリンズスタイルやスウィングスタイルで演奏している人だって沢山いるが、別にその人達が正しくないとか間違っているということではない。

というのは、古典的な真/善/美の区別じゃないが、真理の生産の場である科学(学問)と、芸術(狭くいえば音楽、ジャズ)が異なるという自明な事実の確認だが、両者を繋ぐものが何もないわけではない。ヒントは、フーコーエピステーメーという発想の源泉がヴォリンガーやヴェルフリンの美学、美術史にあるのではないかという岡崎さんの推測にある。

私は美術の専門家ではないので詳しいことまで説明できないが、私が読んだ限りでいえば、ヴォリンガー、ヴェルフリンが学問として確立しようとした美学の要諦は、快/不快を感受するカント『判断力批判』の主観、言い換えれば批判(批評)を排除し、ヘーゲル主義的に、言い換えれば様式という客観的なものの継起の歴史を美術史として把握するところにある。カント的批判(批評)には歴史性が不在であり、客観性も不在である。或る主観が或る対象を美しいと感じ、他の主観(複数)に「普遍的同意」を要求するというのが『判断力批判』の基本である。さらにいえば、カントにおいて問題なのは主要には自然美であり、芸術作品ではない。ヴォリンガー、ヴェルフリンの学派はカントやカントに影響された批評や美学を斥けることから始めた。彼らにとって問題だったのは、繰り返しになるが、客観的な様式の概念であった。ヴォリンガーであれば、それを抽象/感情移入という対で把握しようとする(『抽象と感情移入』岩波文庫)。

さて、そのようにエピステーメーと様式を架橋して考えるとしても、それでも後藤さんの議論は成り立たない。ヴォリンガーらのような意味で美学的に考えるのだとしても、そこにはカント的主観が入り込む余地がないのと同様、現象学的な美的体験の主体が入り込む余地もないからだ。言い換えれば批評家、自称「聴くことのプロ」などが介入する余地などない。

さらに、美術史の様式概念をそのまま、音楽、ジャズに持ち込めるのかも大変疑問だといわざるを得ない。我々は、スウィング、ビバップ、などというが、それは厳密に規定された様式だなどといえるのか。そのように考えてくると、音楽美学の確立というのは相当に困難であるといえるでしょう。

断っておくが、私は別に後藤さん個人になんの怨恨もない。たんに彼の議論なり主張が駄目だといっているだけだ。

今日も朝からついうっかりしょうもない議論をしてしまったが、こんなんだから狂犬攝津とかいわれるんだよねえ。いや別に滅茶苦茶感情的な罵倒をしているわけじゃなく、たんに論理的な破綻を指摘しているだけですが。

音楽、ジャズで実証性なり唯物性を担保するのが困難なのは、フーコーでいえば、日本語の翻訳だと資料体とか集蔵体などと訳されているものを確保するのが困難ということだろう。フーコーだったら古文書テキストの総体とか、ヴォリンガーとかだったら彫刻やレリーフなど実際の(モノとしての)美術品の総体とか。音楽、ジャズでは何がそれに相当するのか。クラシック、というか西欧純音楽であれば楽譜テキストの総体がそれにあたるのかもしれない。しかし、クラシックですら演奏が関わってくれば楽譜だけを対象にするわけにもいかないし、ジャズならなおさらだ。音という放っておけば消え去ってしまうものをどうやって客観的、唯物的に捕捉して合理的に分析できるのか、というのはそれなりに難しい。もしかしたら現在の技術水準ならばそれは可能なのかもしれないが、私にはよく分からない。

実証性、唯物性の担保が難しいから、どうしても印象批評、というか個人の勘にだけ頼った議論なり言説ばかりが横行することになる。それには致し方がない面がある。ただ、それが批評家の御託宣として権威に祭り上げられるならば、それは問題だ。

急に話変わるようだが、後藤雅洋さんが自分はどうしてもジャズ批評をやりたい、そのうえでメルロ=ポンティを理論的根拠にしたいんだ、というなら別にいいと思うよ。ただ、その場合、ジャズが変わったからそれが無効になるとかそういう問題ではないとも思う。フッサールは具体的、個別的な芸術論が一切ない人だったし、サルトルサルトルでまた特殊だと思うが(ジュネ論はあるが)、ハイデガーメルロ=ポンティにおいては芸術論というのは重要な位置を占めている。ただ彼らの場合絵画論なんだよね。ハイデガーにおけるゴッホとか、メルロ=ポンティにおけるセザンヌとか。ジャズはおろか音楽をまともに論じたこともないと思う。それでもメルロ=ポンティの知覚とか身体に関する議論をジャズ聴取体験に応用したいんだということならそれはそれでいいと思う。私は余り興味を持てないが。ただ、考えてみれば音楽を考えた哲学者、思想家って少ないんだよね。一番有名で本格的なのはアドルノだろうが、彼は絶対のクラシック(西欧純音楽)至上主義で、ジャズなんてとんでもない、という人だったからね。ジャンケレヴィッチに音楽論があったと思うがよく覚えてない。ドゥルーズ=ガタリが『千のプラトー』で音楽をちょっと論じているが(ロマン派論とか)、ほんの少し触れた程度。単著で音楽を正面から論じたものといえば、ほかには市田良彦の『ランシエール 新〈音楽の哲学〉』(白水社、2007年) くらいしか知らない。私は読んだがよく分からなかった。市田さんがキャプテン・ビーフハートが大好きだということだけはよく分かった。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E7%94%B0%E8%89%AF%E5%BD%A6

思考過剰で体調を悪くして寝ていて今起きたばかりだが、起きて5分でまた具合が悪くなった。まだFacebookにひとつ書き込んだだけなのに…。

市田さんの本についていえば、彼はフランス語で読むんだろうから熟知しているんだろうが、我々一般の日本の読者はそもそもランシエールという哲学者のことをよく知らないケースが多いと思うので(昔アルチュセールの弟子だったというくらいしか私は知らない)、いきなりランシエール論という形式で音楽論を提示されてもよく分からないということがある。倉数さんはちゃんと読んで理解したらしく、「哲学」になってるじゃん、と言っていたが、私のほうは哲学が本職というか専攻なのにお恥ずかしいけれども、よく分からなかったのだ。

倉数さんってのは面白い人で、一時ラカンの『精神分析の四基本概念』が、「綾小路きみまろのように面白い」とか言って嵌っていたのだが、あの本のどこが綾小路きみまろ??? 頭が良い人の感性ってよーわからん。

そういえばラカンも絵画は論じても音楽の話をしているのを読んだことがないな。

フーコーも音楽論ないね。伝記読むと若い頃付き合っていた同性愛の恋人が将来を嘱望されていた現代音楽の作曲家だったが、突然自殺してしまった、ということがあったようだが。ドゥルーズは、フーコーは音楽に逃避するような弱い人間ではなかった、という意味のことをいっているが、人間と音楽の関係ってそういうものなんだろうか。ドゥルーズによればフーコーの思考の質は喩えていえばエドガー・ヴァレーズなんだというが、それもよーわからん話だ。

柄谷さんも音楽を論じたものといえば、坂本龍一の議論を援用したごく短いエッセイが一本あるだけ。蓮實重彦の音楽論とかも聞いたことがない。中沢新一チベットモーツァルト』は内容的にいってチベット密教は関係あるが、モーツァルトは無関係でしょう。浅田彰の『ヘルメスの音楽』は、蓮實重彦浅田彰は隠れユング派と陰口を叩くのが非常によく分かる、図式的なというか、悪い意味で「象徴的」な文章。

理論的な文章ではないが、中上健次の『破壊せよ、とアイラーは言った』(フランスの作家マルグリット・デュラスの『破壊せよ、と彼女は言った』のもじり)は愛読したね。ロジックはいい加減であっても読ませる文章ですよ。

【2012年3月13日の註:正しくはマルグリット・デュラス『破壊しに、と彼女は言う』(河出文庫)】

中上の意見では、コルトレーンはコードとの果てしない闘争だということだが、それだとフリージャズで歴史が終わってしまう。フリー以降もジャズというものは様々なかたちで存続しているわけだが、その存在意義みたいなのがなくなってしまう。

今はフリージャズに親しんでいる人でもそういう人はいないだろうが(太陽肛門スパパーンは例外でしょう)、60年代には政治的なラディカリズムとフリージャズの前衛性を直結させるようなリスナーが無数にいて、それが時代の気分であり、中上の解釈はそのone of themでしょう(余談だが後藤さんははそのような聴き方からジャズ聴取を「自立」させようとしたのでしょう)。山下洋輔がどこかで書いていた話が感動的というか印象的だったんだが、政治運動に挫折して実家の八百屋を手伝っていたあんちゃんの話ってのがあってね。その八百屋のあんちゃんが、毎回毎回、山下洋輔のライヴを聴きに来る。無言だが、ものすごい真剣な表情で聴いている。だけれども、或る日そのあんちゃんは不意に自殺してしまうんですね。それを読んで、自殺までしないとしても、当時はそういう人が無数にいたんだろうな、と思った。

これは後藤さんがブログかなんかで書いていた話だけど、彼が当時経営していたジャズ喫茶でライヴしてもらおうと生前の阿部薫を呼んだんだって。で、阿部薫が来たんだが、後藤さんに「サックス奏者では誰が好きか」とか訊いてきた。後藤さんの述懐では、返答次第では演奏しないぞ、という感じだったらしい。で、後藤さんが「チャーリー・パーカーが好きだ」とか返答したら、阿部薫は「そうか」とか言って演奏してくれた、という。

まあ今だってフリーに限らずミュージシャンはシリアスかもしれないが、当時は超シリアスというか、それこそ命を賭ける、実存を賭けるみたいな「気分」があったわけでしょう。音楽というのが本当にそういうものなのか、という本質論は別にしてね。

それでね。八百屋のあんちゃんの話に戻るんだが、もしかしたら彼は勘違いしていたのかもしれない。山下洋輔であれなんであれ、彼が考えていたようなものではなかったかもしれない。けれども私はそういう勘違いを嗤えない。私はジャズに限らず音楽は一切の救済を与えないと思う。音楽は宗教ではないのだから。しかし、そこを誤解してしまうケースが往々にしてあるというのは、致し方がないんじゃないかと思う。

【2002年3月13日の註:ここで一つ文章が欠落していますが、しかし残念ながら、Facebookから取り出すことが技術的にどうしてもできません。ですから、記憶の範囲で補っておきます。それは山下洋輔が彼自身の最初のソロピアノアルバム『洋輔アローン』について書いていた逸話です。恐らく実話なのでしょう。こういうことです。それが発表された当時、重病で臥せっている女性がいたそうです。その女性はフリージャズが好きで、ベッドのそばにレコードプレイヤーを置いて(当然当時はCDの時代ではなくLPレコードの時代です)、飽きずに繰り返し繰り返し『洋輔アローン』を聴いていました。或る日その女性は亡くなりましたが、枕元のレコードプレイヤーでは、彼女が死んでしまった後も、『洋輔アローン』のレコードが廻り続けていました。そういう話です。】

というのは、ライヴとレコードの違いはあっても、八百屋のあんちゃんであれ病気の女性であれ、どういう気持ちで山下洋輔のピアノを聴いていたんだろう、とふと想像してしまうから。彼らはいろいろとつらいことや苦しいことがあっただろう。それで最終的に辿り着いたのが山下洋輔のフリージャズだった。私はドゥルーズのようにそれを「逃避」とか言いたくない。

自殺と病死の違いはあっても、彼らは自分に残された生の時間が短いことをよく知っていた。その貴重な時間をジャズを聴くということに費やした。それは尊いことだと感じる。

八百屋のあんちゃんにしても、その心境というのはおおよそ察しがつく。政治的に闘いたかったが、それももうできない。やっていけない。だから実家に戻った。家業の八百屋を手伝っている。しかし、八百屋さんとしてごく普通の、当たり前の日常生活を送り続けることも堪えがたいように感じる。救いと思えるのは山下洋輔のライヴを聴いている時間だけ、みたいな。まあ政治闘争とかは一般に、仕事、労働じゃないし、それだけを続けて一生を送るなんてのは、党派の専従とかにでもならなきゃできない。だから多くの人は闘争をやめて「日常」に戻る(戻るしかない。他に選択肢はない)。だが、うまく戻れない人もいる。そういうことだろう。

今日の書き込みにしても、前半の論理的な話と後半の死者たちの話、感情的な話とでは全く人格が分裂していて、一貫性がなにもない。こういうのを解離というのだろうかね。専門家じゃないので自分ではよく分からないが。こういうふうに人格とか気分が支離滅裂、滅茶苦茶に分裂、崩壊しているというのはそれこそカウンセリングでも受けたほうがいいのだろうが、しかし、金がないという。せいぜいメールマガジンで解離の話を読むくらいしかできない。

些細なことで体調を崩したり、心理的、感情的に崩壊してしまうというのは、衰弱しきっているというか、脆弱な状態なので致し方がない。

パソコンの前で長い間一人で号泣していたら、母親がやってきてひどく驚いていたが、彼女にはなぜ、私が悲しんでいるのかが分からない。それはそうだろう。私自身がよく自分が分からないのだから。

たんに情緒不安定(但し、過度に)というだけだろう。

八百屋のあんちゃんは、彼としては不本意であったとしても、社会生活や日常生活は送れていたのだろうが、私にはそれすらまともにできない。生活も崩壊している。

倉数さんは彼の出版された最初の小説について、快楽殺人者の心理がよく分からなくてそこを書くのに苦労した、といっていたが、しかし私にはそれが簡単に分かってしまう。『黒揚羽の夏』で犯人の男が、主人公の子供らに、毎日生きているだけで地獄だという感覚が分かるか、と問い掛ける。子供らは、そんなもの分かるはずがないじゃないか、と応じる。つまり、彼らは生きる世界が違うということなのだ。そしてそれだけだ。

2Fで食事中もずっと泣き続けていたが、両親は、貧しいから、経済的に困窮しているから、私が泣いているのだと思っている。しかし、そういう問題ではない。それと、話が飛ぶが、このところずっと、呪文というか強迫観念のように、「セックスは気晴らし、音楽は気休め」と考え続けていた。つまりセックスも音楽も自分にはその程度の意味しかない、慰藉という意味しかないということだ。ミュージック・ステーションでYUKIだけ見て降りてきたが、彼女が歌っていた"Joy"は新曲ではないね。以前聴いた覚えがある。気晴らし、気休め、慰藉というのは、私はいかなる意味でも救いを信じないということだ。宗教的な救済であれ実存的な救済であれ、政治的な解放であれ、なにも信じない。そういう意味で自分は暗い。

今日は朝から晩まで小曽根真のVerve移籍後第一作"Breakout"を繰り返し聴いているが、少しも頭に入ってこない。

私は他人の言説を全くチェックしないので、自分の議論がどれくらいオリジナルなのかもよく分からないのだが、Watanumaさん、住谷さん、大本さんとか美学をやっている人が面白がってくれたから良かったんじゃないかな。後半はいつもの病的な私、という感じでしたが。議論をブログで公開してほしいと大本さんから言われたが、どうでしょうか。いーぐる後藤さんへのあからさまな批判なので、彼の論旨を精密に再吟味せねばならないとか、ハードルが高そうです。私の誤解で批判したなら彼に済まないからね。そういえばフィード購読者が一人減ったので調べてみたら、Mr.Pitiful=iwaさんが去っていた。私の病的な書き込みが厭になったんだろうが、友人を失うのはつらいものです。しかし、読みたくない気持ちもよくわかるので、致し方がないでしょう。

前もいったけど、致し方がないでしょう、というのは私の口癖ですね。

自分の考え、信念を今一つだけいえば、社会が不条理、不平等なのはしょうがないんじゃないかな。勿論政治的に改革できるところもあるでしょうが、どうにもならない部分も多々あると思う。例えば、社会の多数派ではなくごく一部だが、生存は地獄だと感じながら生きている人がいる。それは運が悪かった、としか言いようがない。限りなく諦念に近い意見ですが、私はそのように考えています。

今日の議論を大本さんは褒めてくれ、公開を勧めてくれたけれども、私が躊躇するのには理由があります。私はリアルでの人間関係も大幅に縮小しましたが、インターネットでもそうしました。人間関係縮小の最大のものが、デス見沢先生といーぐる後藤さんと絶縁したことです。念のために断っておけば、彼らと対立したとか、喧嘩したとかいうことは一切ありませんよ。単にいやになったのです。それまでは、闇の医療相談室とか、いーぐるnoteを閲覧しない日はありませんでしたが、絶縁しようと決めてからは一切見ていません。今日は行き掛かり上、後藤さんの主張に疑問を呈するかたちになりましたが、仮にFacebookの書き込みをブログで公開するとすれば、後藤さんの主張を今一度よく確かめなければならないし、自分自身の書き込みの文章も推敲し書き直さなければならないでしょう。それだけの手間が取れるか、その体力、気力があるのかも疑問です。しかし、公開的に批判するなら、それだけの手続きを踏まなければフェアとはいえないでしょう。

それと昔から私は貧乏でしたから、邦訳であれ原書であれ、高額なフーコーの著書をほとんど全く持っていないのです。全て図書館で読みました。フーコーの主張についても全て記憶の範囲で書いたので、それについても一々文献的に確かめるとしたら相当な手間でしょうし、できるかどうかも分かりません。しかし、自分の主張を正当に出していくとすればそういう手続きも必要でしょう。

ついでにいえば、ヴォリンガーとかヴェルフリンその他も図書館です。流石に『抽象と感情移入』は文庫なので持っている可能性もありますが、しかし、翻訳が非常に古いものですね。

それから、単に私が消極的だということですが、後藤さんのはてなダイアリーの"think"とか、com-postの煩瑣な「往復書簡」などを一々全部精読したくない、という理由もあります。後藤さんと絶縁しようと決めてからは後藤さんのブログも読んでいません。com-postに至っては不快なのでずっと以前から読んでいません。

私が批判した後藤さんの主張というのは、どこか一箇所に纏められているわけではなく、彼のブログの"think"の散発的な連載とか、com-post往復書簡その他多数の場所で断片的に述べられているものです。それを全部、チェックし、取り集めるのも大変です。

そういうわけで、私は公開に消極的です。ただ、後藤さんはブログで批評家として「スノッブ批判」とやらをやるそうなので、それが展開されたら、それへの反批判として彼の理論的主張への疑問を公開するという可能性はあります。ただ、それも、後藤さんのブログで彼の意見を読む気になれば、ということですが。

というのは、スノッブ批判への反批判とかなにかきっかけがなければ、後藤さんと関わり合いになろうという気持ちになれないと思うのです。私は面倒臭がりなのです。議論、論争がやむを得ないとすればやりますが、本当に必要性があるのかどうか、よく分かりません。後藤さんは高名な批評家ですが、私があげつらったようなことは公刊された彼の著書には一切書いてなく、単にインターネットで言っているだけです。その発言にどれだけの責任というか信用性があるのかも疑問です。批評家としての彼の「公式見解」なのかどうかも判然としません。

後藤さんだけではなく、人間の発言には様々なレヴェルがありますね。例えば、ジャズ喫茶いーぐるの公開講演での発言(オフライン)、とか、インターネットでの書き込み、とか、公刊された著書での論述、とか。それぞれ、賭けられている責任なり信頼性というのは異なるでしょう。フーコー的切断面がどうのというのは、インターネットで言っているだけというレヴェルですね。だから彼としてもどれだけ確信があって言っているのか、責任をもって語っているのかということが分からないのです。

まあ但し、以上のようにあれこれ留保をつけるとしても、後藤さんが語っている理論的な主張の確実性が疑問だという私の意見自体は全く変わりません。

ただ、私がふと考えたのは、後藤さんへの批判の公開は控え、今日の議論の積極的な内容、つまり、仮に音楽美学が成り立つとしたらその条件はどういうものなのだろうか、という考察だけを抜粋・編集・改稿して私のブログに掲載したらどうだろうか、ということです。そうすれば無用な喧嘩や揉め事は避けられるし穏便に済ますこともできる。「穏便に済ます」のがいいのかどうかはまた、別問題ですが。

後藤さんの発言の責任が疑問というのは、現段階では彼は「思いつき」を適当に語っているだけなのではないか、ということです。日本では言論の自由が保障されていますから、いい加減な思いつきを根拠なく語る権利は後藤さんに限らず誰にでもあるわけです。そのようなことを一々大真面目に批判すべきなのかな、ということも少し考えます。

後藤さんの主張が哲学的には、或いは理論的には疑問だといっても、後藤さんが哲学の専門家ではないなどということはよく承知していますから、それをいちいちあげつらうのも大人げないという気もします。

彼はジャズの専門家なのだから、実は長年ジャズを聴いてきた経験値(直感、勘…)で語っただけだ、と開き直られればそれで終わりです。

というわけで迷っているが、明日は早朝から夕方までずっと仕事なので、そろそろ休みます。皆様お休みなさい。どうか良い夢を!