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Gary Burton "A Genuine Tong Funeral"(『葬送』)を聴いています。

葬送

葬送

少し丁寧に考えようと思いますが、松本さんという人の推測を手掛かりにしたいと思います。それは、柄谷さんが規約委員会を作ったのは要するに馬鹿が嫌いだということだ、というような推測です。

なるほどそういうことはいかにもありそうなことです。けれども、そのように考えてしまうならば、そもそもNAMを作って一般の人々と一緒にやろうとすべきではなかったのではないでしょうか。

NAM会員に柄谷さんの本の読者が多かったとしても、それは知識的であるということとは違うと思います。どういうことかと申しますと、『可能なるコミュニズム』以降はもちろん、それ以前のもろもろの主著についても、疑問点が多々あるということです。もし柄谷さんの読者だという人々がそういうことに少しも疑問を持たないとすればおかしいし、そういうことは知識的であるとはいえないと思うのです。そういう人々が、柄谷さんは読むけれども、彼が言及するテキスト、例えばデカルトを自分で読んで確認することをしないとすれば、それはものを考えているとはいえないでしょう。

別にNAM会員、NAMの人々が知識的でなくても良かったと思いますが、そのことに自覚的であるべきではあったとは思います。そうでないならば、どうしても、根拠がないいい加減なことをいってしまうということになるからです。

NAMでもいろいろな議論がありましたが、一つ私が覚えていることをいえば、「NAM的芸術」とかで盛り上がってしまった人々が一部にいたのですが、実際にはそういうものはあり得ませんでした。岡崎さんのいっていたことが妥当だと思います。彼はそういう話で盛り上がるより先に具体的に個々の芸術作品を経験していくというような地道な作業のほうが大切だといったのです。全くその通りだというしかないと思います。

そういう人々は宮沢賢治を軽率に持ち出します。けれども宮沢賢治がどうなのかというのはそれほど安易にいえるようなことでもありません。NAMとは無関係にですが、倉数さんは『私自身であろうとする衝動』で、大澤さんは『神的批評』でそれぞれ一章を割いて宮沢賢治を丁寧に論じています。宮沢賢治を考えるとしてもそのくらいの準備が必要です。メーリングリストで簡単にいえるようなことではありません。

でもそういうこともしょうがなかったと思います。もし柄谷さんが(NAMに入っていた知識人、文化人全員にいえることですが)、一般の人々、普通の人々は馬鹿なので付き合うのがいやだと思ったならば、そもそもNAMを始めるべきではありませんでした。

ただ、これも流産してしまったのですが、田中さんや岡崎さんが2002年末に考えたNAMの抜本的改革の構想では、「研究所」を作って柄谷さんには所長になってもらおうということだったのですが、もし実現していたならばそれが一番良かっただろうとは思います。経験的にいってどうみても、柄谷さんにはメーリングリストで一般人と対話するというようなことができる人ではありません。そうであるならば彼自身が望んだように、知識人、文化人とだけ自由に「理論」を討議する場を設置してそこにひきこもるのが良かったと思います。

この話はこれくらいにします。

小倉さん、田中さんのことを話しましょう。まず事実関係をいえば、小倉英敬さんは『封殺された対話』という本を書いています。これは素晴らしい本です。現在私は小倉さんと何の付き合いもありませんが、しかし彼のことを非常に尊敬しています。立派な人だと思います。

小倉さんは自発的にNAMに入ったわけではないと思います。詳細は忘れましたが、太田出版の高瀬さんから誘われたはずです。2000年だと思いますが、私は落合さんから依頼されて、小倉さんのお宅まで伺いました。当時、スペースAKとの抗争の真っ最中でしたが、小倉さんにはどういう状況、経緯なのか全く分からなかったので、私が詳しく説明をしたということです。

そのときに小倉さんから『封殺された対話』を贈っていただきました。私は今でもそのことを感謝しています。私は小倉さんと長い間話し合ったと思いますが、記憶に残っているのはふたつです。まず彼は、柄谷さんは自分はブントをやったとかいっているが、運動の文脈で柄谷さんの名前を聞いたことがないといいました。それから、彼は、実は自分はラディカルな左翼なのだともいいました。

そういう小倉さんですから、NAMは非常に居心地が悪いのを我慢していたと思います。彼にはNAMが負担であり、重荷でした。だから、NAMをやめてしまって解放された、せいせいしたといっていましたが、彼がそう感じたのも無理はないと思います。

柄谷さんにしても、小倉さんや田中さんが自分の読者連中とは異質であり、政治的に重要だということは承知していました。だから規約委員会で小倉さんや田中さんにこう書きました。私にはあなたがたの気持ちがよく分かっている。だから、私の気持ちも分かってもらいたい。柄谷さんがいったのはそういうことでした。

三者として読めば、NAMはあのようなものであっても一応は政治運動のはずなのに、どうして自分の気持ちを分かってほしいという話になってしまうのかよく分かりません。

これはもうどうしようもないのだろう、と思いますが、柄谷さんという人は大事なところにくると、論理ではなく感情に訴えてしまいます。Qの紛争のときも、柳原さんが柄谷さんに会いに行ったそうですが、どうして自分の気持ちが分からないんだ、と不満を漏らしていたそうですが、冷たくいえば、そんなものが分かるわけはないだろう、ということになってしまいます。

そもそも『封殺された対話』がフジモリ政権におけるペルーの日本大使館の人質事件がテーマですが(小倉さんは当時大使館員であり、彼自身が人質であり、生命の危険がありました)、小倉さんという人はペルーと深い繋がりがあり、生産協同組合、地域通貨フェアトレードでペルーの貧しい若者達を何とかして救いたい、という希望を持っていました。彼のそういう期待や希望に全く応えることができなかったということを、NAMの人間として申し訳なく感じます。

高橋悠治リアルタイム9: ピアノ』を聴いています。

リアルタイム9 ピアノ

リアルタイム9 ピアノ

もちろん私個人がペルーのためにできることがなかったのはどうしようもなかったでしょう。でもNAM総体ということであれば、それこそいろいろな人々がいたわけですから、もしかしたら少しは小倉さんの望んでいたようなことに取り組める可能性があったのではないだろうか、と思います。でも、それは私がそう思いたいというだけの話かもしれません。

その小倉さんがNAMをやめたのは9.11がきっかけでした。どういうことかと申しますと、9.11は世の中一般に衝撃であっただけではなく当然、NAMにも激震を齎したということです。9.11の後、アメリカがアフガニスタンに報復攻撃をやるだろうということは分かっていました。小倉さんは、自分でそういっていたようにラディカルな左翼ですから、当然、反戦デモに行きます。私も行きました。倉数さんや田口さんその他の多くの人々も行ったはずです。でも、反原発デモに燃えている現在の柄谷さんしか知らない人は驚くでしょうが、2001年当時の柄谷さんはそういうことに著しく否定的であり、辛口だったのです。ショックを受けて右往左往、右顧左眄するよりもNAMやQをやるべきだ、もっといえば自分の『トランスクリティーク』を読むべきだ、それが柄谷さんの意見でした。それが小倉さんをひどく怒らせてしまいました。

小倉さんが腹を立てたのも当然ですし、致し方がなかったと思います。彼はNAMの理論が誤謬かどうかとかそういうことが問題ではないのだ、といっていました。彼が最後にいったのはこういうことです。現時点で人々から信頼されないようなくだらない運動(くだらない、とまでは小倉さんはいいませんでしたが)が未来において信頼されるようになることなど絶対にあり得ない、そういって彼はNAMと訣別しました。私は小倉さんは正しかったと思います。

Earl Hines "Live At The Village Vanguard"を聴いています。

Live at the Village Vanguard

Live at the Village Vanguard

次に田中さんの話をしますが、その前に先程申し上げたことに補足しますと、柄谷さんの問題というのは、罵倒体質というのももちろんあるでしょうが、それ以前に、本人は主観的には理論的、論理的なつもりでも、実際には感情論以外何もないということではないかと思います。例えば彼はQは理論が間違っていると考えました。けれども実際に彼を動かした動機は西部さんへの憎悪、怨恨でした。

田中さんについて、田中正治という名前が本名なのかペンネームなのかというような基本的な事実関係からして私は知りません。彼が有名な左翼活動家であった(或いは、現在もそうである)というのは知っていますが、彼の過去のことを何も知りませんし、彼が自分から話したがらないようなことを詮索したこともありません。例えば、塩見さんは田中さんのことをよく知っていました。けれども逆に、田中さんの口から塩見さんの名前を聞いたことがありません。彼は或る時期から、一般的な左翼というよりも、エコロジーや農業に強い関心を持ち、パートナーの阿部さんとともにその方向に邁進したと思います。だから、NAMでも農業セクションの代表者として出発したのです。

田中さんと阿部さんが初めてやってきたとき、飛弾さんと私が対応しましたが、そのときのことをよく覚えています。田中さんは、強い調子で、確信をもって、「理論は変わる」とそう語ったのです。私は、NAMはまだ始まったばかりなのにどうしてこの人はそういうことをいうのだろうか、と不思議でしたが、2012年の現在になって田中さんが正しかったということはよく分かります。実際、十年経って、NAMの原理、NAMの理論などというものは全く古臭いもの、無効なものになってしまいました。

けれどもその田中さんにとって、NAMは不愉快であったろうと思います。鈴木健太郎さんのような観念的というしかないような人から、田中さんは農本主義だから駄目なのだというような心ない批判をされて、温厚な田中さんでさえも腹を立ててしまいました。それに限らず、鈴木さんはよく、本質的であるとは思えないことをいって、田中さんや柳原さんを怒らせてしまうというようなことが何度もありました。

田中さんはNAMの代表になってしまいましたが、彼がそうなることを希望したわけではありません。具体的な経緯を考えると彼が気の毒です。NAMは「選挙+くじ引き」といっていましたが、くじ引きに意味があるかどうかという以前に、そもそも選挙が機能しなかったのです。

NAMの代表選挙があり、評議員が投票しました。ところが、代表に推挙された人々がほぼ全員、辞退してしまうというようなどうしようもないことになってしまいました。杉原さんが驚いて、何であなたがたは辞退するのかと訊ねましたが、投票で1位であった倉数さんは「自分は文学研究に専念したい」といい、2位であった山城さんは「とにかくいやなものはいやだ」とかいう意味不明な理由で辞退しました。西部さんも結構上位でしたが、Qと両立できないといって辞退しました。

田中さんはそもそもNAMやQの大量のメールに困惑していましたが、このとき、メールを読むのが遅れ、辞退するタイミングを逃してしまいました。ただそれだけの偶然で、彼はNAMの代表になってしまいました。NAMではペンネームを使っていた柳原さんや、英語に本当に精通していた和氣さんも、彼らなりに相当悩んだ挙句に代表職を引き受けてくれました。彼らは選挙で上位ではありませんでしたが、何しろ上位の人々が全員勝手な理由で辞退してしまいましたので(私は、代表を務める気持ちがそもそも最初からないのであれば、選挙、投票の前にそれを公言する義務があったはずだと考えますが)、どうしようもなかったのです。

Herbie Hancock "Gershwin's World"を聴いています。

ガーシュウィン・ワールド

ガーシュウィン・ワールド

早稲田奉仕園でNAM大会を開き、田中さんが代表、柳原さんと和氣さんが副代表ということに「あみだくじ」で決まりました。そのことを、関本さんのような人は喜びましたが、私は、これが喜ぶようなことなのかと思っていました。なぜなら、もともと投票で上位3名を選んでくじ引きをしようというのがNAMの発想だったわけでしょう。けれども現実には、投票結果で上位であった人々は全員辞退してしまいました。その段階で、既にNAMは深刻な状態であると考えるべきであったのです。投票で上位になるような主要な人々全員にやる気がなかったのですから、深刻というほかないでしょう。

ちなみにNAMでの最初のくじ引きは監査委員を選出したときのもので、太田出版の事務局で行い、私が証人として立ち会いました。くじ引きは原始的な方法でしたけれども、公正であったと思いますが、岡崎さんとか私のような人々がくじに当たってしまいました。岡崎さんは、自分自身が立ち会っていないくじ引きには実感がない、といっていましたが、それはなるほどその通りでしょう。私自身は現場に立ち会ったので、公正であったと断言できますが、岡崎さんやその他の人々に対してそれを証明するといったようなことはできるはずもありません。

ともあれ、田中さんが新しい代表に就任しました。大会で彼は代表就任の挨拶、演説をしましたけれども、あらかじめの原稿など何もなかったはずですが、その演説が実に素晴らしい感動的なものであったということだけはよく覚えています。

田中さんの演説の素晴らしさには柳原さんも驚いていましたが、多分田中さんには代表になろうとなるまいと、こういうふうに進むべきだというはっきりとした考えがもともとあったのでしょう。彼は「理論から実践へ」というスローガン、目標を掲げました。具体的には、全国各地で地域通貨交換市、バザーを次々に開催していくというのが彼の構想でした。そうすることで、観念的で実践性が全くないNAMの人々を実践的、行動的にし、活発にしようとしたのです。そのアイディアは素晴らしいものだったと思います。ですが、残念なことに、紛争が起きてしまいました。田中さんは紛争の対応に追われ、結局NAM代表としてやりたかった構想を何一つ実現できませんでした。

田中さんという人は、カリスマ的な整体の先生(私も田中さんの勧めでこの女性のところに一時通いました)と懇意でしたが、その整体の先生が2002年当時の田中さんを診て驚いて、NAMなど今すぐやめなさい、このままでは死にます、といったそうです。

その整体の女性のいうことがどのくらい妥当であったのかということは私には判断することができませんが、田中さんもいろいろと苦労しただろうということは容易に分かります。彼は精神的に強靭でしたから耐えられましたが(なぜなら数十年間も学生運動、左翼運動、エコロジー運動を頑張ってきたという人なのです)、他の人が代表であったなら耐えられなかったでしょう。例えば、引き合いに出して申し訳ないですが、もし山城さんのような人が代表になっていたならば我慢できなかったと思います。

ただ、紛争の前の時点で、もう駄目ではないかと感じた瞬間がありました。NAM大会の前後だったと思いますが、当時はCafe Sを名乗っていたと思いますが、西早稲田の蛭田さんの店にNAMの人々が集まって、ワイドスクリーンでサッカーのワールドカップを熱心に観ていました。もちろんサッカーを観戦するのが悪いというわけではありませんが、それ以外全く何もしないNAMの人々を見ていて、このままではNAMは駄目になると思いました。当時、倉数さんが事務局長で、私はその彼のもとで副事務局長であったと思いますが、倉数さんに、このままではNAMは駄目になってしまう、というようなことを言った記憶があります。そのときの倉数さんの返事は、それもしょうがないじゃないか、というような感じだったと思いますが、実際、どうしようもなかったのです。

要するに当時の私自身がNAM、NAMの人々(というのは、もちろんQを含めてという話です)を観察していて、これが「国家と資本を揚棄する」「対抗運動」であるようにはどうしても見えなかったということです。そう感じても、自分にできることは余りありませんでした。私は事務局でしたが、それは単に実務者だということです。NAMの方針は代表や評議会が決めます。事務局員に口出しはできません。一個人、一会員として地域通貨をやってみるということならあったでしょうが、しかしそれだけです。そのようなことに限界を感じていました。

国府弘子さんの"New York uncovered"を聴いています。何しろ彼女は膨大にCDを作っていますから、その全部を持っていませんが、自分が聴いたもののなかでは特に好きな一枚です。"Besame Mucho" (Consuelo Velazquez)が好きなのです。"Besame Mucho"は有名な曲ですが、ちょっと考えてみますと、名演奏というのは少ない気がします。

蛭田さんのような人は会うたびに、会議でも飲み会でもほとんどいつでも、NAMは数十年単位の運動なのだと威張っていましたが、そのようなことは非常に苦々しく感じられます。数十年、数百年どころか3年間維持することもできなかったし、客観的にいえばいかなる意味も成果もありませんでした。けれどもそのようなつまらないNAMであったとしても、NAM解散後に柄谷さんとお会いしたときに、彼から直接あんなものはしょせん「お手並み拝見」であったなどといわれてしまい、私は腹を立ててしまいました。別に怒らなくてもよかったのかもしれません。そのようなくだらないことは「スルー」するのが大人というものでしょう。ということは、私はただ単に子供であったというだけのことです。

"Antonio's Song" (Michael Franks)、これはUAの"Ametora"で初めて聴きましたが、非常に素晴らしい曲です。国府弘子さんのピアノ・トリオの演奏も素晴らしいです。メンバーを確認しておくと以下のようになります。Hiroko Kokubu - Acoustic Piano, Christian McBride - Acoustic Bass, Mino Cinelu - Drums and Percussions。2004年の録音だそうです。

よく知らないし興味もありませんが、世間一般では柄谷さんという人は立派な知識人だということになっています。多分そうなのでしょう。でも、そういう立派な人間である彼の発想が、私のような凡庸な人間の理解を超絶してしまうということがあります。彼が私に直接そう語ったのですが、例えば彼はコロンビア大学の教授で、批評家のフレデリック・ジェイムソンの同僚です。ところが、そのジェイムソンが自分と異なる意見をいうと、怒鳴りつけるそうです。ジェイムソンに日本語ができるはずがないので、恐らく柄谷さんが英語で怒鳴るということなのでしょう。そうしますと、本当にそういうことがあるのかどうか知りませんが、僅か3分で、ジェイムソンは柄谷さんに従うそうです。柄谷さんが西部さんに腹を立てたのは、ジェイムソンのような人でも3分で自分のいうことに従うのに、西部さんはといえば、3分どころか徹夜で一晩中怒鳴りつけたのに、自分に従わなかった、それがどうしても許せない、というような理由です。そのような話を聞かされて、私のほうは、全くわけが分かりません。そのような柄谷さんがあらゆる意味で普通の人ではないということはよく伝わってきます。しかし、それだけです。

意地悪な推測をすれば、ジェイムソンは、柄谷さんがすぐ感情的になってしまうので、表面的に従うふりをしているだけなのではないのか、と考えてみることもできます。別にそう考える根拠は特にありません。それほど誰でも他人が柄谷さんの思うままになるとはちょっと考えられない、ということくらいが理由です。そうしますと、西部さんという人にしても、あの京都の夜に、柄谷さんに一応従うふりをして、実は従わない、というような器用なことができていたならば、ああいう目には遭わずに済んだのかもしれません。けれども、そういうふうに欺瞞的にやり過ごすほうがよかったとか、是非そうすべきであったというようなことを私から申し上げるということもできません。そうしますと、やはり現実はあったままの現実で、あれ以外にはあり得なかったのであろう、という残念な結論になってしまいます。それも致し方がないように思います。

アレクサンドル・スクリャービン『神聖な詩』『法悦の詩』を聴いています。ミハイル・プレトニョフが指揮するロシア・ナショナル管弦楽団の演奏です。

スクリャービン:交響曲第3番「神聖な詩」&第4番「法悦の詩」

スクリャービン:交響曲第3番「神聖な詩」&第4番「法悦の詩」

柄谷さんにせよ、自分の軽率な発言を、私から十年間も執拗に批判され続けるというようなことは、まさか予想もしなかったでしょう。けれどもそれは致し方がないことです。柄谷さんのほうは、私がインターネットで彼を批判しても、そのことに気付きさえもしないでしょうが、それすらもどうしようもありません。少し皮肉にいえば、実に幸せな人だと思います。彼の周りには彼を常に褒めてくれる子分がいつも沢山います。そういう子分のおべんちゃらを聞かされて自分は偉いのだと思い込むのが楽しいというだけの哀れな人間なのです。

柄谷さんという人は、実に簡単にあっけなくNAMとかQを滅ぼしてしまいましたが、彼がやったのと同じやり口で、私が彼を滅ぼしてしまうということはできません。けれども、正確に何歳なのかは知りませんが、彼が老人なのは事実なので、彼に残された生の時間もそう長くはないであろうと考えるとしても合理的です。もちろん、そのようなことは何の救いにも慰めにもならないし、それに私は病気ですから、彼よりも長く生き延びる保証もありません。ただ私に分かるのは、自分が悪意的であり非常に執拗であるという事実だけです。

彼が社会的に有意義なこと(反原発デモとか、弾圧された人の救援の署名とか)をやっているとかは関係ありません。それは柳原さんの場合と同じです。私には少しも関係がありません。そんなことは知ったことではないのです。