近況アップデート

ラフマニノフが編曲し自らピアノ演奏している「くまばちは飛ぶ」(リムスキー=コルサコフ)──若き日のホロヴィッツによる演奏も『ホロヴィッツ・イン・メモリアル』に入っています──これはとても懐かしい。私は、小学生、中学生の頃これをさらにポピュラーにアレンジした「バンブル・ビー・ブギ」を好んでよく弾いていました──今はもう弾けませんが。

ラフマニノフが編曲し自らピアノ演奏している「くまばちは飛ぶ」(リムスキー=コルサコフ)──若き日のホロヴィッツによる演奏も『ホロヴィッツ・イン・メモリアル』に入っています──これはとても懐かしい。私は、小学生、中学生の頃これをさらにポピュラーにアレンジした「バンブル・ビー・ブギ」を好んでよく弾いていました──今はもう弾けませんが。

リパッティ(Dinu Lipatti)、J.S.バッハ / スカルラッティ / モーツァルト──素晴らしい演奏です──「それにしてもリパッティコルトーの弟子というのは信じられないほどだ。両者の演奏スタイルが正反対だからだが、コルトーのすばらしさはこのように自分の趣味を絶対に弟子に押しつけない点にあった。彼は弟子が本来備えている才能や音楽性をそのまますくすくと成長させ、芸術表現の本質だけを教えこんだのである。」(宇野功芳

小林秀雄モーツァルトの悲しみは疾走すると書き付けたとき念頭に置いていたのはト短調交響曲でしたが(40番と25番です)、イ短調のピアノ・ソナタ(8番)もなかなかのものです。リリー・クラウス(新録音)とグレン・グールドで持っていますが(ギーゼキングを持っていたかどうか忘れました)、リパッティの演奏が一番いいと思います。小林秀雄の『モオツアルト』は蓮實重彦のような人々から通俗的だと否定されてしまいましたが、なるほどそれはそうなのでしょうが、小林秀雄が素人だというのは当然だし、蓮實重彦が専門家だというわけでもないでしょう。複製技術(レコード)で聴いていたというのも当然のことです。

クラウスの新録音は情緒過多だし(旧録音のことは知りません)、グールドはただ機械的に速いというだけです。一般にグールドのモーツァルトは良くないと思います。彼はモーツァルトのピアノ・ソナタを全曲録音していたと思いますが。ギーゼキングは持っていませんでした。

サンソン・フランソワショパン・リサイタル』──「英雄ポロネーズ」──彼のショパンラヴェルは素晴らしい。

(cyubaki3との対話抜粋)
【Re: 高橋悠治は中2病未満】
それは酷いね。
高橋悠治も、ピアニストとしてポリーニにかなうわけがないだろう。
そういうことが自分で分からないとしたら本当に厨房、子供というしかないね。柄谷みたいなものだ。

【Re: 黒い猫が見つかることを祈る】
言語を考えるというのはいいと思うけれども、言語、言葉を考えるといってもいろいろあるからねえ。例えば、ソシュールウィトゲンシュタインをごっちゃにして考えることはできない。

それに、ソシュール自身は「ラング」というレヴェルで考えた。
けれども、メルロ=ポンティ加賀野井秀一のような現象学者は「パロール」を重視した。当然だよね。
そういったいろいろな違いがあるから、慎重に考える必要があると思うよ。

【Re: 補足】
そうかもしれないね。ピアニストとしては高橋悠治がグールド、ポリーニの域に達しているなどとは全く考えられないのではないか?
柄谷さんが自分はフレデリック・ジェイムソン、ジジェクネグリと対等、というか彼等よりも自分が上、などと考えてしまうのと同じ自己愛でしょうね。高橋悠治も。
高橋悠治は、作曲は難しかったがピアノ演奏は簡単だったとかいっているが、そういうものではないだろう。

【Re: 黒い猫が見つかることを祈る】
私にはわざわざソシュールを持ち出す動機がよく分からない。
「音楽に限らず人間の思考は全て感覚と言語の問題だ」というのはC3の言う通りだろう。
簡単にいえばなまの感覚、知覚が転がっているのではなく、言語によって形成された概念枠を通じて感覚、知覚している、ということだろうが、確かにそれは「到達点ではなく始点」だ。構造主義どころかメルロ=ポンティがそうだし、さらにいえばカントがそうだ。
というか、なまの感覚があると素朴に考える人のほうが少ない。イギリス経験論(ロック、ヒューム)やコンディアックなどの18世紀フランスの哲学者か? でもコンディアックすら言語の問題を気にして論じていたようだ。

構造主義
つきつめれば構造主義者というのはレヴィ=ストロースしか存在していない。
辛うじて言語学者ヤコブソンが入るくらいではないか。
ラカンのいうことはよく分からない。彼がソシュールの理論を勝手に変更してしまったというのは以前いーぐる掲示板で指摘した。

橋爪大三郎その他の人々が構造主義について書いていることは私にはよく分からない。

ちなみにハイデガーにとっては構造主義などは「パリの知的遊戯、流行現象」でしかなかった。フランス人はハイデガーに影響されたつもりだったが、当のハイデガーはフランス思想を全く評価していなかった。

【Re: 構造主義
フーコーは自分は構造主義者ではないと言い張っているが(『知の考古学』)、『臨床医学の誕生』『言葉と物』は明らかに構造主義的だ。
アルチュセールのことはよく分からない。彼は何度か立場を変えている(それこそ「自己批判」したりして)。最終的に偶然性の唯物論とかいうトンデモになってしまう。
マルクスのために』、『資本論を読む』とかは、ラカンに影響された。アルチュセールフロイトを厳密に読解していくラカンセミネールに衝撃を受け、同じことをマルクスのテキストについてやろうと思ったのだ。
アルチュセールは自らの弟子をラカンのもとに差し向けたが、そうしたらラカンの娘婿になってしまい、ラカン派の跡継ぎになってしまった(ジャック=アラン・ミレール)。フーコーが『知への意志』を出したときにあれこれ苛めたのはこのミレールだ。ミレールにはフーコー精神分析学を否定したのが許せなかったのだ。
バルトは何度も態度変更しているし、例えばクリステヴァとの関係なども微妙だ。構造主義的というならば、バルザックの『サラジーヌ』(この小説は論じられることが多い。ミシェル・セールも『両性具有』(法政大学出版局)でこの小説を論じている)を論じた『S/Z』だろうね。けれども『恋愛のディスクール・断章』『テクストの快楽』『偶景』になるとほとんど小説家になってしまう。

【攝津ブログ】
私はただ一つのことしか言っていない。「もう少し慎重に考えるべきだ。」ただそれだけだ。
フーコーすら頭から信じてはいけないと思う。私がそう考えるのには根拠があると思う。

フーコー
(a) フーコーははっきり現象学的であった時期があるし(『夢と実存』への序文、『精神疾患と心理学』)、構造主義に傾いていた時期もある(『臨床医学の誕生』、『言葉と物』)。けれどもそのことを自分自身で否認し、著作を書き改めてしまう癖がある。『精神疾患と心理学』も『狂気の歴史』以降に到達した立場から全面的に書き換えてしまった。邦訳もその書き改められた第2版からだ。だから、現象学的であり現存在分析の支持者であった若き日のフーコーがどうであったのかは分からない。構造主義との関わりについては、『知の考古学』以降激しく否定し、彼は『臨床医学の誕生』から構造主義との関係を疑われる表現、「シニフィアン」「シニフィエ」「構造」などを消してしまった。だから後の読者にはそもそものフーコーが事実どうであったかが分からなくなってしまう。

(b) フーコーの発想には複数の源泉がある。岡崎乾二郎が示唆したような、ヴォリンガー、ヴェルフリンの美学、美術史との関連というのは仮説の域を出ないが、確定的なものがふたつある。このふたつはフーコー自身が認めているのではっきりしている。(1) ひとつはニーチェの系譜学と後期ハイデガーの「存在の歴史」「技術(テクネー)の運命」などの思想。(2) もうひとつはフランス独自の科学哲学であるバシュラールやカンギレムの「科学認識論(エピステモロジー)」。けれども、このふたつを挙げてみて、こういうものをごっちゃにしていいのかということが全く分からない。フーコーの思想の背景にあるものが非常にややこしいということだけは分かる。私が「フーコーすら頭から信じてはいけないと思う」のはこのようなことが理由だ。

橋本治の道徳的動機〜『秘本世界生玉子』「ソドムのスーパーマーケット」から】

『秘本世界生玉子』(北宋社)、「ソドムのスーパーマーケット」を再読して橋本治の道徳的動機が少し分かりましたが、このような考えがくだらない、意味がないという私のもともとの意見は少しも変わりません。けれども、ともかく読んでみましょう。291-2ページです。

でも、欲望をその身に備えてしまった少年、男であることを目指す男の子、消え果ててしまった"成長"という幻の道を辿ろうとする男の子は、ソドムのスーパーマーケットに並べられている生きた食料品ではないのです。彼等は、口をきき、言葉を発する、生きた人間なのです。
彼等は"意味"を求めているのです。快楽と欲望をその身に兼ね備え、しかもなおかつ、本当の意味を持った"男"、本当の意味を持った"人間"、本当の意味を持った"自分"を探し求めているのです。
僕のおとうさん、おにいさん、彼等にそれを与えられないのなら、あなたのその手を、何を知らない、僕の可愛い弟達に近づけないで下さい。彼等に必要なのは、快楽を引き出すことに長けた、あなたの蠢く指ではないからです。彼等に必要なのは、本当の意味を持った言葉と、それを持った、本当の人間だけなのです。ついこの間まで男の子だった僕には、今そのことがはっきりと分るのです。
おとうさん、おにいさん、だからどうぞ、汚ないその手で、あの子達にさわらないで。

秘本世界生玉子 (河出文庫)

秘本世界生玉子 (河出文庫)

秘本世界生玉子 (1980年)

秘本世界生玉子 (1980年)

本当の意味、本当の人間、本当の○○など最初からあるはずもありません。だからそのようなくだらないヒューマニズムに依拠した橋本治の議論総体が無意味です。少年がスーパーマーケットで売られている商品ではないなどは自明のことです。私は「本当の意味を持った言葉」などが存在するとは少しも思いません。それが私が橋本治を拒絶する理由です。

【B.ミケランジェリショパン
Arturo Benedetti Michelangeli, Piano / Frederic Chopin (1810-1849)
Mazurkas
Prelude in C sharp minor op.45
Bllade in G minor op.23
Scherzo in B flat minor op.31
録音:1971年10月、11月 ミュンヘン

ショパン:10のマズルカ

ショパン:10のマズルカ

アルトゥール・ルービンシュタインショパン
Artur Rubinstein Piano / Frederic Chopin (1810-1849)
Piano Sonatas Nos.2 & 3
Fantaisie in F minor

ショパン
ピアノ・ソナタ 第2番 変ロ短調 作品35「葬送」──録音:1961年1月9-11日、ニューヨーク、マンハッタン・センター
ピアノ・ソナタ 第3番 ロ短調 作品58──録音:1959年5月1日、1961年1月5日
幻想曲 ヘ短調 作品49──録音:1962年11月27日

アルトゥール・ルービンシュタイン「人生には良いこともあれば、悪いこともあるが、どちらが多いのかをショパンは知らない。葬送行進曲は、死、英雄的な死に対する人間の哀悼の表現として、心に直接働きかける。というのは、すべての人は、自分が失ってしまった個々の英雄を捜し求めるからである。」

ライナーノーツを読んで考えたこと──「バッハ以外の作曲家に全く無関心だったショパン」というのは本当だろうか? そして、作家ジョルジュ・サンドとの恋愛関係──1838年から8年間。19世紀ヨーロッパではまだ女性の社会的地位は確立されていなかっただろうが、男性に従属していたわけではない、決定的に重要な人物が何人かいる。例えば、ジョルジュ・サンドやルー・ザロメジョルジュ・サンドの『愛の妖精』(岩波文庫)は面白かった。ショパンの3番は2番よりももっと面白い。

ショパン:ピアノ・ソナタ集&幻想曲

ショパン:ピアノ・ソナタ集&幻想曲

永遠の仔
十年以上前の覚束無い記憶を辿る──中谷美紀主演のTBSのTVドラマ『永遠の仔』──中谷美紀が演じる主人公は子供の頃自分(達)が父親を殺害したのだと思い込んでおり、トラウマに苛まれている──彼女は看護婦として病院に勤務しているが(奇しくも『聖なる怪物たち』で中谷美紀が演じている春日井師長と同じだ)、罪の意識から自分が幸せになることを許すことができない──彼女には一緒に養護施設で育った数名の仲間達がいる、「永遠の仔」達だ──最終回で実は彼女達が父親を山で突き落として殺したのではなく、母親がやったのだという真実が明らかになる──しかしそれでも彼女は解放され幸福になるわけでもない──仲間達とも絶縁してしまい、病院から姿を消す──

マズルカ集】
アルトゥール・ルービンシュタインが演奏するショパンの『マズルカ集』──ルービンシュタインホロヴィッツに負けず劣らず素晴らしい──

ショパン:マズルカ集(全51曲)

ショパン:マズルカ集(全51曲)

私が記憶している死者達というのは、実際には面識もないような、または実在すらしていないような人々です。

例えば2003年に「夢の島」公園で究極Q太郎さんが話してくれた「探究」です。彼は、あかねにおける最初の死者でした。「探究」は自殺したのです。

または柳原さんの小説の主人公である「Q」です。「Q」は恋愛問題のせいで自殺してしまいました。勿論柳原さんの小説をほとんど忘れてしまいましたし、柳原さんのweb-siteももう存在しないと思います。

マイルス、コルトレーンに『グリニッジ・ヴィレッジのアルバート・アイラー』を付け加える必要があります。アイラーが繰り返し演奏するのは黒人の葬儀での陽気なマーチです。そのアイラーは、1960年代末の或る日、射殺体となってハドソン河に浮いているのが発見されました。アイラーを殺害した犯人は捕まっていません。アイラーは、コルトレーン亡き後のフリージャズを牽引していくはずでしたが、しかし死んでしまいました。勿論、オーネット・コールマンは元気に生きていますが。

二つ付け加えれば、ゲイリー・バートンの『葬儀』とキース・ジャレットの『生と死の幻想』(原題: Death and Flower)ですが、私はそれほどいいと思いません。一般にキースが好きではありません。例外はスタンダーズ・トリオでの『星影のステラ』と『ボディ・アンド・ソウル』(原題:The Cure)です。後者における「ベムシャ・スウィング」はなるほど素晴らしいと思いました。

血圧を測定したり降圧剤を飲むのをやめてしまってもう10日以上になります。なんとなくそういうことがどうでもよくなりました。余り食べてもいません。飲み物だけは飲みます。

社会的関心が全くありません。反原発運動に無関心なだけではなくありとあらゆることに興味関心が感じられません。ネットを開けば山口美江が死んだとかK-1のブアカーオが失踪したとかいうニュースがそれこそいやでも目に入ってきます。彼らのことはTVで見て知ってはいますが、彼らがどうなってしまったのだとしても、どうでもいいことだとしか感じられません。

朝9時から深夜3時まで休憩せずに独りでブログを更新し続けています。それ以外のことをするつもりは一切ありません。外出もしません。スーパーにすら行きません。

循環や反復が想像的なものでしかないというのと同じ意味で死者らや不在の人々との対話も想像的なものです。例えば柳原さんとの対話は想像的なものです。なぜなら現実の彼と会う気はないし、電話したりメールを送るつもりもないからです。私にとって彼は架空の人物、彼自身が書いた「Q」と変わりがありません。私は現実になんの興味もありません。