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おはようございます。竹宮惠子の『風と木の詩』を少し丁寧に考えたいと思いますが、その前に今読んだ本のことをちょっと書くことにします。アンドレ・ジッド『背徳者』(石川淳訳、新潮文庫)。吉田秀和『音楽 展望と批評』の2と3(いずれも朝日文庫)。

ジッドは1893年、24歳の時アルジェリアに旅行しました。1902年に書かれた(当時ジッドは33歳です)『背徳者』はそのアフリカ体験が踏まえられているといわれています。解説を書いている河上徹太郎は、「なお序ながら、この肉感性の発動の対象が黒人の少年であることは、ジッドの同性愛的資質の現れであり、彼の全作品を貫く顕著な要素である。」といっていますが、実際に『背徳者』を読んでみると、幾ら読んでもたいした話ではありません。19世紀末のフランスの知識人にはこの程度のことが「肉体」だとか思えたという話でしかありません。

石川淳は有名な作家ですが、その彼がどうして『背徳者』を翻訳してみようと思ったのかはよく分かりません。『一粒の麦もし死なずば』の翻訳は堀口大学ですが、いずれも素晴らしい日本語だと思います。石川淳の翻訳が正確に何年のものなのか分かりませんが、この新潮文庫そのものは、「昭和26年12月10日発行」とあります。

主人公のミシェルという人が語り手ですが、彼は古典学者で、そして病気です。どういう病気か分かりませんが、血を吐いたそうですから、結核か何かではないかでしょうか。

肉感性の発動とかいっても全くたいしたことがないのだというのは、次のような箇所からも窺うことができます。31ページです。「明くる日、バシルはまたやって来た。彼は前々日の如く坐って、小刀を出し、木を刻もうとした。ところが、木があんまり硬かったので、彼は拇指に刄を突き立ててしまった。わたしは恐ろしさにぞくりとした。彼は笑いながら光った傷を見せて、にこにこして血の流れるのを眺めた。笑うと真白な歯が見えた。彼は面白そうに傷口を舐めた。その舌は猫の舌のように薔薇色だった。ああ、本当にたっしゃなものだ! わたしが彼にまいったのはその点だった。健康と云うことだった、この小さな体の健康は美しかった!」

それから、非常に細かいどうでもいいようなことが気になってしまうのですが、63ページです──「これが、まだすることのないわたしの新しい生命の見つけ出した仕事だった。わたしは、そこから、わたし自身にとっても驚異すべき仕業が生れるであろうと考えていた。しかし、やがて、やがては、とわたしは心に云った。──生命がもっと整えられる時に。それまで何としても生きて行かなければならないので、わたしはデカルトのように、仮行動の方法を保つことにした。」──石川淳が「仮行動」と訳しているのはデカルトの暫定的道徳と呼ばれるものだと思います。デカルトの主要な関心は形而上学、数学、自然学にありましたから、明示的に倫理学を書くことはありませんでした。彼の倫理的な考え方は『情念論』やエリザベート宛て書簡などから断片的に窺うしかないようなものです。ただ、こういうことはいえると思います。数学や自然学と違って、人間の行為や社会を扱う倫理学には、明晰・判明な観念とか十全な観念とか、絶対に確実といったことがありません。ですから慎重であればあるほど、行動規則は「暫定的」であるほかないというようなことです。

ジッドが哲学についてどのようなことを考えていたのかはよく分かりません。ただ、95ページから96ページにかけてこういっています──「わたしの参考になってくれる筈の哲学者たちはと云えば、わたしはずっと以前から彼等に何を期待すべきかを知っていた。数理派でも新批判派でも、彼等は煩わしい現実からはできるだけ遠ざかろうとして、代数学者がおのれの計算する量の存在に対するように、殆どそれを気に留めなかった。」──この小説は1902年のものですが、当時の哲学思想の状況は判然としません。数理派といっても具体的に誰のどのような考えなのか不明です。ただ、「新批判派」といわれているのは新カント派のことではないだろうかと推測しても不合理ではないと思います。ジッドの主人公であるミシェルにとってそれらがどうでもいいようなことだということはよく伝わってきます。ミシェルには当時流行していた哲学のことが、ただ単に煩わしい現実から遠ざかるためのものだというふうにしか思えなかったのです。

ジッドの『背徳者』は深い幻滅で終わっています。数年後にアフリカを再訪しますが、まず、奥さんが病気で死にます。そして、かつてミシェルに肉感性を発動させた黒人の少年達もみんな成長して大人になっています。そのことを167ページから168ページはこう記しています──「わたしには子供たちがわからなかったけれども、子供たちにはわたしがわかった。わたしが来たと知るや、みな駆け寄って来た。これが彼等だと云うのか。何と云う当て違いだ! 一体、どうしたことか。彼等は怖ろしく大きくなってしまった。やっと二年そこそこだと云うのに。──そんなことはあり得ない……どんな疲労、どんな悪徳、どんな懶惰が、あれほど青春に輝いていたあの面に早くもかかる醜さを置いてしまったと云うのだ。どんな腹黒いしわざが、こんなに早くあの美しい体を歪めてしまったのか。破産のようなものがそこにあった。わたしはいろいろ訊ねてみた。バシルはカフェの...皿洗いになっている。アシュウルは道路の砂利を割ってやっと数スウをかせいでいる。アマタルは一眼を失った。思いもよらない! サデックは列の中にいた。彼は一人の兄を助けて、市場でパンを売っている。ばかになったようだ。アジブは親父の傍で肉屋を開いた。ぶくぶくに太って、汚ないが、金がある。もう落ちぶれた友だちに口をきこうとしない……身分が上ると人間がばかになる! わたしは、我々の中で悪んでいたものを、彼等のうちにもまた見出そうとするのか。──ブウバケルは? 彼は結婚した。そのくせ十五にもなっていない。おかしな話だ。──いや、しかし、その晩わたしは彼に会った。彼は云いわけして、結婚はうわべだと云う。これは手のつけられない道楽者だと思う。酒は飲む、形は変る……さて、残っているものはこれぎりなのか。これが人の世の作り上げたものなのか。──わたしが再び見に来たのは多く彼等であったことを感ずると、悲しみはいよいよ堪えがたい。──メナルクの言葉は当っていた。思出は不幸の案出なのだ。」

私はこのような考えがくだらないと感じます。かつてミシェルにとってアフリカの少年達が魅力的だったとしても、歳月が経てば大人になるというのは当然のことです。生活をしなければならないから薄汚れてしまうというのもどうしようもないことです。そういうことを嘆いてどうなるものでもないと思います。ジッドや彼の主人公が、子供はやがて必ず大人になるというような簡単なことが理解できなかったとは思いません。けれども『背徳者』が文句を言っているのは、結局そういうことです。

ジッドの話はこのくらいにしますが、最後にいえば、モーリヤックとか言ったでしょうか、フランスのキリスト教の文学者連中が寄ってたかって説得して、ジッドをキリスト教に入信させてしまいました。ドゥルーズはそもそもジッドに否定的ですが、そのこととは別に、そういうふうに道徳的に恫喝して無理矢理キリスト教徒にしてしまうというようなことに強く反対していました。『アンチ・オイディプス』か『千のプラトー』にそういう話があったと思います。もしかしたら別の本だったかもしれませんが。

さて、吉田秀和から引用したい部分が2箇所ありますが、その前に事実関係を確認しておきましょう。『音楽 展望と批評 2』に収められているのは「音楽展望(1974-77年)」、「音楽会批評(1974-77年)」です。もともと朝日新聞に連載されたもので、朝日文庫になったのは1985年だと思います。『音楽 展望と批評 3』のほうは「音楽展望(1978-81年)」、「音楽会批評(1978-81年)」で、こちらも文庫本に纏められたのは1985年です。

私が引用しておきたいのは、いずれも『音楽 展望と批評 3』に入っているものです。まず、「フルトヴェングラーの思い出」、164ページから。「元来が無機的な物質である音が相よって一つの生きものとして立ち上がり、こちらに向け歩いてくる。フルトヴェングラーをきくということは、この事実を経験することにほかならなかった。とすれば、その演奏行為を中心で指導していたフルトヴェングラーは、文字通り音楽を生きていたといってよい。彼が外界はどうあれ、自分はそれから独立した芸術の世界の住民だと信じていても不思議ではない。現に1936年、ナチ・ドイツから彼を引き離そうとした人たちが、トスカニーニの後任としてニューヨーク・フィルの常任指揮者に招いた時、彼は「公衆が政治と音楽は別だと認めるまではニューヨークで指揮するわけにいかない」とことわったそうだ(メニューイン『果てしなき旅』)。 / 彼のこの考えは徹底していて、同じ1936年、こんどはバイロイトヒトラーと会った時も、ヒトラーに「宣伝のため党の目的に甘んじて利用されるべきだ」といわれ、即座に拒絶した。腹を立てたヒトラーが、「それなら強制収容所行きだ」というと、フルトヴェングラーはちょっと沈黙したのち「総理閣下、そうして頂けたら、すばらしい仲間に入れてもらえるわけです」と答えた。こういう返事にあったためしのないヒトラーはよほど面くらったのか、いつものようにどなり立てることをせず、いきなり背を向けて出ていった。」

それから、183ページ、「ショスタコーヴィチの「不信」」から。「記憶とは何かを覚えているというだけではない。それは過去についての変えることのできない人間内部の証言である。過去をほしいままに書きかえようとするものは、人間を皆殺しにするか、人間から記憶を根こそぎ抹殺するほかない。芸術も本来「人類の記憶」の一種である。あとになってから、どういう註釈を書き加えることができるにしても、いったん出来上がった作品自体を変えることはできない。芸術は、記憶と、それから真実への信頼を土台として、何らかの真実を内容としなければ成立しない。マンデリシュタームの本はそれをはっきり教える。」

メニューインの回想によれば、フルトヴェングラーは政治と音楽とは別だといったそうですが、しかしそれは本来当たり前です。ただ、20世紀には「怪物のような超権力」(フーコー)の経験、ファシズム(ナチズム)とスターリニズムの経験がありました。ですから、フルトヴェングラーであれ、或いはショスタコーヴィチやマンデリシュタームであれ、政治権力に翻弄されてひどい目に遭ってしまうということにもなりました。けれども、20世紀に限らずもともと政治と音楽の関係は微妙だったのではないかと考えてみることはできます。ベートーヴェンゲーテと一緒に歩いていたときナポレオンと遭遇して傲岸な態度を取ったという逸話がありますが、ベートーヴェンはナポレオンがヨーロッパの解放者などではなく「皇帝」になりたいだけだったということに腹を立てていました。ゲーテベートーヴェンと違って自分の批判をあからさまにしませんでしたが、ゲーテのほうが政治的に慎重であり大人であったのだと言われます。なるほどそれはその通りでしょうが、ベートーヴェンのような人が自分の気持ちを隠しておくことができなかったのも致し方がなかったのではないでしょうか。彼は自分の3番の交響曲(「英雄」)をナポレオンに捧げるのをやめてしまいました。皇帝になってしまったナポレオンはもはや英雄ではなく、ただの権力志向の俗物でしかなかったからです。けれども、それはもともとそうだったのです。みんなが誤解しただけです。ヘーゲルは馬上のナポレオンを目撃して、「世界精神が行く」と感激したそうですが、もちろんそういう話ではありませんでした。

寄り道が長くなってしまいましたが、竹宮惠子の『風と木の詩』を考えましょう。事実関係を確認しておけば、1976-1984年に漫画雑誌に連載され、第25回(昭和54年度)小学館漫画賞少年少女部門を受賞しています。主要な舞台は19世紀末のフランス、アルルのラコンブラード学院の寄宿舎ですが、19世紀末のフランスが竹宮惠子が描いているようなものであったのかは全く分かりません。恐らく彼女の想像でしかないでしょう。けれどもそのことは別にどうでもいいと思います。

もう少し大事で慎重に検討しなければならないのは、竹宮惠子が当初の構想では主人公を女性にするつもりであったということです。つまりこの作品は同性愛の物語になるはずではありませんでした。けれども、どういう経緯なのかよく分かりませんが、そういうことになってしまいました。

勿論漫画ですから、絵によって、正確にいえば線によって表現されるものですから、ジルベールとして造型されたキャラクターが女性に見えようと男性に見えようと、それはたいして重要なことでもありません。19世紀末のフランスがただの想像物でも関係ないというのと同じです。大事なのは、作品、物語の内的なロジックを慎重に考察することです。

さて、義父のオーギュはジルベールを精神的、性的に虐待しています。それは非常に残酷です。「倒錯した愛」があるとかいいますが、読者である私にはただの虐待、暴力にしかみえません。

例えば私がよく覚えている場面をいえば、オーギュはジルベールを知人の男色家のもとへ差し向けて犯させます。それはジルベールにとっては初めてのセックスだったのでひどく痛がるし苦しむので、その知人の男性は却って驚きます。けれどもそれは当然のことです。ジルベールはまだ当時10歳くらいのはずです。性を知るはずもない子供なのです。その知人男性も残酷ですが、その人のもとへ子供を送った義父はもっと残酷です。

オーギュがジルベールをラコンブラード学院の寄宿舎に放り込んでしまうのも、捨ててしまうというようなことでしかありません。それでもジルベールは、オーギュがいつか迎えに来てくれるのではないかと信じていますが、そういうことはありません。読んでいてオーギュのほうに愛情のようなものが僅かであれあるというふうには少しも感じられません。

学院ではジルベールは非常に性的に放恣です。他の生徒連中の性的な慰みもの、オモチャにされていますが、別にどうでもいいと思っています。彼のことを好きになってくれた生徒もいましたが、しかし彼はその人にひどい扱いをして自殺させてしまいました。そのような経緯を知っている老人は、ジルベールは魔性のものだから滅ぼさなければならない、殺さなければならないという強迫観念にとり憑かれています。

そこにセルジュという人が転校してきて、ジルベールと同室になります。不思議に思えるのは、漫画を最後まで読んでも恋愛感情が感じられないということです。どうみてもセルジュには道徳的な動機しかないのです。つまり、ジルベールが余りに荒んだ生活をしているから立ち直らせたいというようなことです。けれども、ジルベールにはそのような「真面目」さが迷惑だとしか感じられません。

少し脱線しますが、漫画に虐待といっていいような経験をしてきたキャラクターが登場することがよくあります。例えば『パタリロ!』のバンコラン少佐やマライヒがそうですし、『BANANA FISH』の主人公がそうです。

子供時代のバンコランはよく笑う子供でした。その彼が笑わなくなったのはどうしてでしょうか。叔父が財産を盗む目的で彼の父親を殺害したからです。けれども幼いバンコランには父親の記憶はほとんどありませんでした。彼を傷付けたのは当時の彼の唯一の友達であった頭の良い(知能の高い)犬を叔父が殺害したことです。その犬は叔父がバンコランの父親を殺害する現場を見てしまったのです。その犬は死にますが、バンコランに叔父が父親を殺したことをカードで伝えます。けれども幾ら頭が良いとかいっても、犬のいうことが信用されるはずもないし、バンコラン自身もまだ子供ですからどうすることもできません。けれどもこの出来事はバンコランの心に生涯消えない染みとして残ります。

それだけではありません。遺された母親は浪費家でした。叔父が財産を盗んでしまいましたので当然、お金に困っていますが、贅沢を改めることがどうしてもできません。街の資産家から借金をして豪華な生活を続けてしまいますが、借金を返済できません。結局、借金をちゃらにする代わりに、その資産家と少年バンコランが一晩ベッドを共にする、とかいうことになってしまいます。彼は母親の我儘の犠牲になりますが、そういうことが厭になって家を飛び出してしまいます。そのときにイギリスの諜報機関であるMI6の偉い人に拾われてMI6に入ります。

ですから、MI6とかいってもたいした話ではありません。日本でいえばぐれて家を飛び出した少年が暴力団に入ってしまうとかいうのと変わりがありません。

MI6に入ってからもいろいろなことがありました。例えば、若いバンコランに愛を教えてくれた人がいました。けれどもいろいろ複雑な経緯があって、結局、バンコラン自身がその人を射殺しなければなりませんでした。

ライヒのほうはどうかといいますと、彼は貴族の家の出のはずですが、どういうわけだかラーケン伯爵というテロリストのもとで養成されています。子供の頃の彼がラーケン伯爵のところで叩き込まれていたのは殺人、暗殺のテクニックです。

後年バンコランと幸せな家庭を築いても、マライヒにはその当時の記憶が忘れられません。例えばバンコランと暮らすロンドンのマンションの部屋の台所で料理をしているとします。けれどもどうしても当時のことを思い出して考え事をしてしまいます。そうしますと、声には出さないとしても、自然に唇が少し動きます。そばにパタリロが居合わせてその唇の動きを読み取ってしまいます。

考えを言葉にして話さないとしても無意識的に唇が動いてしまう、というようなことは実際にありますが、私が驚くのは漫画作者の魔夜峰央がそのような現象をよく知っていたということです。

さて、台所でパタリロに気付かれて問い質されたので、マライヒはラーケン伯爵のところでどのようなことを教え込まれたのか話し始めます。それはこのようなことです。ナイフを暗殺対象の心臓に深く刺し込んで、刃を少し捻ると、空気が入るので、暗殺対象は声もたてずに死んでいく、というような非常に具体的な殺人の技術です。

図書館で橋本治(『桃尻娘』シリーズと『蓮と刀』、『秘本世界生玉子』)とアンドレ・ジッド(『一粒の麦もし死なずば』)を借りてきました。新刊で、市田良彦『革命論』(平凡社新書)が出ていました。ざっと立ち読みして、なるほど現在の世界にとって大事なことが書いてあるのかもしれないとは思いましたが、自分にはそのようなことまで手を出して考える余裕が全くないと感じました。『パタリロ!』を考えるほうが自分自身にとっては遥かに重要です。そういうわけで、話を続けます。

脱線ばかりで本筋に帰ることができませんが、どうしてバンコランが、MI6で彼に愛を教えた人を最終的に殺さなければならなかったのか、ということを少し考えてみたいと思います。

当時は東西冷戦の時代です。MI6はイギリス王国の諜報機関ですから、当然、当時の東側世界の諜報機関と対立しています。その人は敵国の機関に捕まってしまいます。

そしてその人は、ひどい拷問を受けたり、執拗に麻薬で責められますが、屈服しませんでした。けれども、イギリスに戻ってきたとき、(後に回復するとしても)ほとんど廃人のような状態になってしまっています。

バンコランが麻薬が関係する事件で冷静さを保つことができないのは、そのような出来事がトラウマになっているからです。麻薬犯罪者は、この程度の犯罪をしてもどうせたいしたことにはならないとたかを括っています。軽く考えているのです。けれどもバンコランはそのような犯罪者を射殺してしまいます。

イギリス警視庁の刑事が居合わせてバンコランの行為に驚き、これは殺人だといって逮捕しようとしますが、しかし、バンコランがイギリス王室の女王陛下から与えられた殺人許可証──勿論、現実にはそんなものがあるわけはありませんが──を提示すると黙るよりほかありません。

しかし、残酷なことですが、バンコランに愛を教えた人は転向してしまいます。それどころか、イギリスを裏切って敵国のスパイになってしまうのです。どうしてそのようなことになってしまったのでしょうか。

簡単にいえば、それは「太陽と北風」の寓話のような経緯です。その人は拷問されても麻薬で責められても屈服しませんでした。けれどもその後、イギリスで回復してから後のことですが、巧妙な洗脳戦術に引っ掛かってしまいます。

私は魔夜峰央という漫画家には人間心理がよく分かっていたと思います。彼はこういうふうな描き方をしています。まず、敵国の工作員は、下心を隠して、その人にマルクスの本、例えば『資本論』を渡します。その人は最初、不審に感じるかもしれませんが、敵の考え方も知る必要があるから、とかいって読ませます。読んでみますと、マルクスの本にはそんなにくだらないことばかり書いてあるわけではないので、マルクスのいうことも少しは正しいのではないか、とか思うようになります。敵国の工作員は、非常に長い時間、それこそ数年を掛けてそういう気持ちを少しずつ少しずつ大きくしていきます。

その人は、拷問や薬物には屈しませんでしたが、長時間を掛けた巧妙な説得によって考えが変わってしまいます。何しろ、強制されたのではなく自分の自由意思で判断したと思っています。罠であったとしても、そのことに気付きません。

その人はイギリスを裏切り、バンコランを殺そうとします。バンコランはそのまま殺されてしまうはずでした。なぜならその人は、MI6でバンコランに愛を教えただけではなく、銃の撃ち方など戦闘技術も全て教えたからです。バンコランのことは、個人的な癖に至るまで全て知っています。どのように考え、どのように動くか分かってしまいます。ですから、そのような人にかなうわけがないので、そのまま殺されてしまうしかないはずでした。

けれどもただ一つその人に計算できなかったのは、バンコランの現在の愛人であるマライヒが命を賭けてバンコランを守ろうとしたことでした。その人はバンコランとマライヒの恋愛関係を知りませんでしたので、そのようなことを予測できなかったのです。結果、マライヒは負傷しますが、バンコランの殺害は失敗し、その人に一瞬の隙が生まれます。バンコランは死を免れますが、最終的にその人を自らの手で射殺しなければなりませんでした。これはコミックスの何巻か忘れましたが、「霧のロンドンエアポート」という題名の短篇であるはずです。

吉田秋生の『BANANA FISH』の主人公は、『風と木の詩』や『パタリロ!』の主要な人物と違って同性愛者ではありません。むしろ同性愛的なものを嫌悪しています。どうしてでしょうか。長い間義父から性的虐待を受け続けて育ったからです。

BANANA FISH』も長い漫画ですが(長過ぎるくらいです)、簡単にいえば、犯罪組織の親玉である義父と主人公の少年(彼自身青少年らで構成されるギャンググループを率いています)が対決し、最終的にその主人公が義父を殺害するという物語です。

私が重要だと思うのは、その主人公が、どういう経緯であったか忘れましたが、日本人の少年と友達になるということです。勿論同性愛的な関係、恋愛関係ではなくただの友達です。けれどもそのことが非常に重要です。なぜならその主人公には対等に付き合えるような友達、心を許せる相手が誰もいないからです。ギャンググループの手下なら沢山いるでしょう。けれどもそのような部下に対して、自分の弱みを見せるというようなことは絶対にできません。だからその主人公は非常に孤独です。犯罪組織ともギャング団とも関係がない日本人が友達でいてくれるから少し気持ちが楽になります。

BANANA FISH』の全体を考察するつもりもないし、本が手元にないのだからそういうこともできませんが、私がはっきりと覚えている場面について話をしたいと思います。それはこういうことです。主人公の少年が率いているギャング団と義父の犯罪組織と繋がりがあるギャング団が抗争になります。日本でいえば内ゲバのようなものを想像すればいいと思いますが、非常に残酷な殺し合いになります。主人公の少年はギャンググループのリーダーとして、敵を殺せ、殺戮しろと部下、手下に命じます。部下や手下はその主人公に絶対服従するしかないので、そのようなことを実行してしまいます。

けれども、日本人の友達は犯罪組織やギャング団とは関係がない普通の人です。だから、そのようなことは非常に残酷であり、人の道を外れていると考えているので、そのようなことをその主人公に言います。逆にいうとそのような忠告をしてくれる人は彼の周りにはその日本人以外誰もいません。周りにいるのはギャング団の手下ばかりです。そのような人々が、敵を殺せという彼の命令に逆らったり反対できるはずがないのです。

結局主人公は日本人の友達の言葉を受け入れて殺戮を中止します。このようなエピソードは別に『BANANA FISH』の中心ではありません。けれども私には非常に重要であるように思えます。

幾ら生き延びるためにはやむを得ないといっても、対立するギャング団の構成員(その人々もまだ子供、青少年です)を残酷に殺戮してしまうというようなことが正義などでないというのは自明です。正義でないのは自明ですが、それだけではなく、そのようなことをしては、結局、その主人公の少年自身が(たとえ抗争には勝利するとしても)人間的に駄目になってしまいます。だから日本人の友達はそのような行為をやめるように説得したのです。心を開いたり信頼できる対等な友達が一人でもいるかどうか、ということが大きな分かれ道です。そのような人がいなければ、その主人公が殺戮をやめることもなかったでしょう。

さて、ここでようやく『風と木の詩』に戻ることができます。20年前読んだものに正確な判断ができるかどうかは疑わしいとしても、私は、ジルベールにはそういった信頼関係が一切なかったと思います。バンコランとマライヒは恋人同士です。同性愛者ですが、ほとんど夫婦のようなもので、どれだけ過去に悲惨なことがあったとしても、今はロンドンのマンションの一室で幸福に生活しています。『BANANA FISH』の主人公には心を許せる友達が一人だけいました。けれどもジルベールはそうではなかったと思います。

ジルベールが義父のオーギュのことをまだ慕っていたとしても、その義父はその期待に応えて愛情を返してくれるような人ではそもそもありません。学園の生徒達はジルベールのことを性的なオモチャとしか思っていませんでした。ジルベールのことを好きになってくれた人も過去にいましたが、その人のことを死なせてしまいました。セルジュは真面目かもしれませんが、彼のことはよく分かりません。先程書いたように道徳的動機しかない印象を受けます。ジルベールのほうもセルジュを愛しているようにはみえないし、ただの友達という程度のレヴェルですら心を開いているようにもみえません。

そのことが竹宮惠子が造型したジルベールというキャラクターの根本的な問題です。彼は他人を信頼したり、心を開くことができません。言葉を通じてまともに人間関係を構築することもできません。彼は義父のもとで特殊な育ち方をしました。結果、はっきりいえば、肉体関係を通じて他者を測定する、というようなことしかできなくなってしまったのです。そのようなことが、寺山修司のような人には「悪」にみえましたが、そうではないと思います。言葉を信頼できない、行動化してしまうというのは、なるほど問題行動ではあるでしょうが、悪ではありません。

どうして『風と木の詩』には人気があったのでしょうか。当時の日本にジルベールのような人々が無数にいたからです。それは男性であるとか女性であるとか、同性愛であるとか異性愛であるとかいうことに関係がありません。

少し一般的な話をすれば、2012年の現在からすれば、1970-80年代の「境界例」の流行は想像がつかないかもしれません。19世紀末から20世紀前半にかけてのフロイトの時代におけるヒステリーの流行がもはや過去の歴史的事実に過ぎないというのと同じ意味で、それはもう過去の事実でしかありません。けれども、ヒステリーや境界例などがなくなったというわけでもありません。精神疾患は単なる文化的流行ではありませんが、何らかの仕方で社会的な影響を必ず蒙り、時代と共に変容します。現在境界例がそれほど話題にならないとすれば、それはそうした問題がなくなってしまったとか解決できたということではなく、ただ単に社会的な条件が変わったというだけのことです。ウィットゲンシュタイン言語ゲームのような比喩を使うならば、ゲームのルールが変わったというだけのことです。

風と木の詩』の流行は19世紀末のフランスとは関係ありません。むしろそれが描かれた(連載されていた)当時の日本の状況に関係があります。ジルベールのような人が無数にいたと断言できる根拠は、言葉による信頼構築や限界設定がどうしてもできず、性的なものも含めて行動化によって表現することしかできないような人々が無数にいたことだけは確実だからです。そのような人々とジルベールの違いは、ジルベールほど美しいというわけでもないだろうというようなどうでもいいことしかありません。

ヒステリーでも境界例でもそうでしょうが、その患者が美しいとか魅力的ならば、誰か構ってくれる同性なり異性が現れます。つまり、セルジュのようなお節介な人が出現するということですが、だからといってどうにかなるというわけではありません。ただ単に共依存になるだけです。

セルジュが主観的にジルベールを救いたいと思っていたとしても、そのような善意や正義感でどうなるようなことでもありません(そもそもそのような発想は非常に傲慢です)。ジルベール自身が変わろうとしなければどうにもなりません。つまり、自分の肉体や性を通じて他人を測定したり試したりすることしかできないということを変えようとしなければどうにもなりません。実際、セルジュと付き合ってもどうにもなりませんでした。ジルベールは事故死ですが、南条あやの死と同じです。つまり、自滅的な死に方だということです。彼にはどうしてもそれを乗り越えることができない限界とか境界線があったのです。もしそれをこえることができていたならば、死なずに済んだでしょう。けれども事実南条あやが死んだというのと同じような意味で彼は死にました。