いーぐる掲示板への投稿

しばらくこの掲示板、後藤さんのはてなダイアリー、com-postなどを閲覧したり書き込むのをやめていました。理由は自分としてcom-postの大西順子バロック』評に納得できなかったからです。大西順子の全作品(勿論リーダー作に限ります)を1月に聴き返してみました。自分はこれは肯定すべき音楽と感じました。しかし、個々の作品の評価はいろいろとあるでしょうから、それはそれでいいでしょう。

本題に入りますが、後藤さんのはてなダイアリーのthink21-22や、com-postの「往復書簡」で示されている意見への批判を、非公開(IDがあれば誰でも読めるので厳密には非公開ではないですが)のFacebookで書きました。それを私のはてなダイアリーで公開してほしい、という人がいました。しかし、私はためらいました。後藤さんの主張そのものを正確に把握し直す必要があるし、参照されているもの(フーコー)を再検討する必要があったからです。勿論私は後藤さんとちがって、「ジャズを聴くことのプロ」ではないので、ジョシュア・レッドマンなど音源を無限に参照することは不可能ですが(CDを購入するお金がまったくありません)。

さて、最終的な報告ではなく、中間的な報告ですが、もしかしたら退屈かもしれません。ご笑覧いただければ幸いです。

(1) 後藤さんがthink21-22で展開された思考を私なりに要約すれば、後藤さんはこれまではメルロ=ポンティ的な知覚体験というレヴェルで考えてきたけれども、或る時期から(後藤さんはジョシュア・レッドマンサウンドを例に挙げておられます)、そのような経験の連続性という観点からは理解できないジャズが出てきたとおっしゃっています。そこで、「フーコー的切断面」というものに思い至ったけれども、メルロ=ポンティフーコーが両立するのか疑問である。こういうことだったと思います。

続きも書きましたが、どうしても超長文になってしまうので、書き込みを躊躇します。どうすればいいかは後藤さんのご判断に任せます。

自分の考えを(長文ではなく)箇条書きで記します。

フーコー現象学の関係は微妙だと思います。現象学をそんなに簡単に否定できると思いません。例えばドゥルーズは、『狂気の歴史』を、まだ現象学風に体験に依拠している、しかし実際には「知」以前にはなにもないのだ、と批判しています。しかし私は、「狂気」のような主題を体験を一切参照、依拠せずに論じることができるのか疑問です。ジャズ聴取が主題であればなおさらでしょう。

・『言葉と物』で展開され『知の考古学』で再吟味された方法をジャズ(ジャズ聴取、ジャズ体験)にも使えるか、どうかは微妙です。普通の疑問として、フーコーが扱った「人文諸科学」とジャズでは、まったく違うということがあります。人文科学は精密科学ほどやかましくはないですが、やはり真/偽の分割を生み出すための学問性のようなものが要求されます。ジャズ、ジャズ体験、ジャズ聴取、その歴史の場合に、「エピステーメー」のようなものを語れるのでしょうか。

・ヒント程度に留めますが(というより、私自身がそう詳しいわけではないですが)、フーコーエピステーメーという発想の源泉のひとつが、ヴォリンガー、ヴェルフリンらの美術史、美学における様式の概念にあるのではないかという岡崎乾二郎さんの推測は検討する価値があります。彼らは、カントの『判断力批判』に影響された批評や美学を否定し、客観的な様式の継起というかたちで美術の歴史を把握することが学問的なのだと考えました。同じようなことがジャズに、また音楽一般にいえるかどうか、吟味する価値があると思います。

・ジャズにフーコー的な読みができるかどうかは、私の個人的な意見では、「視聴覚的なアーカイヴ」が成り立つかどうか、にかかっています。つまり、テキストの唯物性、合理性(検証/反証可能性)、客観性を担保できるかどうか、ということです。後藤さんが主張されていることが、一個人の感想などではないということが証明できるのかどうか、と言い換えてもいいでしょう。音楽一般、またジャズにおいてアーカイヴが成り立つかどうかすこし考えました。クラシックであれば楽譜があるでしょう。けれどもクラシックでさえ、演奏という次元を考慮すれば楽譜だけでは駄目だと思います。具体的な音源、例えばCDが必要になります。また、即興演奏を採譜したもの(アート・テイタムチャーリー・パーカーバド・パウエルセロニアス・モンクから、果ては最近のミシェル・カミロに至るまでそのような採譜が販売されていますが)も有効でしょう。

・すこし脱線すれば、超人的なアイディアマンといわれる岡崎さんですが、彼、というよりも、正確にいえば彼の周りの人々、弟子、学生らが日々、四谷の芸術学校でどのような地道なことをやっているかというのを私は少し知っています。彼らは、膨大な美術作品(絵画)を延々とスキャニングしてパソコンに取り込み、データ化しているのです。私の考えでは、彼らがやっていることは、美術領域において「視聴覚的なアーカイヴ」を作ろうとしているのです。さて、音楽やジャズにおいて、同じような作業は可能でしょうか(やっているとすれば、どういう人々でしょうか)。

・それから本当に個人的、私的な感想になりますが、ジャズはそれが生まれて以来というもの、頻繁にスタイルを変貌させてきたわけです。後藤さんが指摘されている変化がそれとは異質な決定的な切断、断絶であり、「ポストモダン・ジャズ」というようなものなのか、自分には俄かには信じがたいところがあります。後藤さんは、現在のジャズが自分らの経験値ではうまく把握できない異質な(新しい)ものだといわれますが、同じようなことは、ビバップが出てきたとき、或いはフリージャズが出てきたとき、当時のジャズの批評家や聴衆も感じていたのではないでしょうか。つまり、繰り返しになりますが、どうして後藤さんがおっしゃる近年の変化が決定的な切断といえるのかということの、具体的な根拠がよく分かりません。

結局長くなってしまいました。どうも失礼しました。