近況アップデート纏め
食事を済ませたしUstreamまですこし時間があるので、感想めいたものを書いていくことにしましょうか。
「そういうわけで、精神医学が真実か否かということは、私にはどうでもよい。いずれにせよ、私が提出する問いはそういう問いではない。医学の言うところが正しいか正しくないか、それは病人にとっては大問題だが(笑い)、分析学者としての私には二の次の問題なのです。」→私は、自分はフーコーとは意見が違います。「医学の言うところが正しいか正しくないか、それは病人にとっては大問題だ」と思いますが、それはその通りだしなにしろ私は病人なので(笑い)、薬物療法であれ精神療法であれ、効果があるのかどうかというのは大事なことです。
(狂気は)「創作活動の消滅そのものであり、創作活動が不可能となる出発点、創作活動が沈黙しなければならぬ地点である。槌は哲学者ニーチェの両手から滑りおちたばかりである。そしてゴッホは、自分の創作活動と自分の狂気が両立しないのをはっきり心得ていた。「医師たちに画を描く許可」を求めようと望まなかった彼は。」→話が飛躍するようですが、以前言及した漫画家の山田花子の飛び降り自殺を連想しました。彼女は分裂病と診断され、もう漫画は描けない、表現できない、と絶望して死にました。そのことについて私は、分裂病になったから漫画が描けないということはないんじゃないか、薬で症状も治まる可能性もあるしそうしたら表現できるのではないか、という意味のことを言いました。しかし、そんな安易な問題ではないのかもしれませんね。「ゴッホは、自分の創作活動と自分の狂気が両立しないのをはっきり心得ていた」のだとしたら、山田花子も同じことを「はっきり心得ていた」のかもしれません。
「アルトーの狂気は創作活動のすき間のなかに滑りこんではいない。その狂気は、まさしく営みの不在であり、この不在の繰返しあらわれる現存であり、はてしない不在のひろがりのなかで感受され測定される、それの中心的な空虚である。」→以前紹介したようにドゥルーズとガタリは、アルトーはまさに分裂症者であるゆえに「文学の完成」なのだ、と主張していたのですが、フーコーは意見が違うのでしょうか。
「フーコーが『狂気の歴史』について反省するのは、それがまだ現象学風に、生きられた野性の体験を引き合いに出し、バシュラール風に、想像力の永続的な価値を引き合いに出しているからである。しかし、実際に知以前には何もない。」→これは微妙な論点です。ドゥルーズはフーコーと現象学(ハイデガー、メルロ=ポンティ)との違い、断絶を強調してやみませんが、フーコーは出発点において、現象学、現存在分析の支持者でした(『精神疾患と心理学』、『夢と実存』への序文)。それがどういう経緯で、根深い現象学への反対者になったのかは、よく分かりません。ただ、私が考えるのは、狂気について書くのに、一切「体験」への参照を切断してしまい、「知」だけでやって大丈夫なのだろうか、ということです。想像力の永続的な価値がどうの、というのは正直よく分かりません。ただ、『狂気の歴史』はニーチェでいえば『悲劇の誕生』みたいなものなのかな、というのはよく言われるし私もそうかもしれないな、とは思います。ニーチェが『悲劇の誕生』を自己批判したのは、ショーペンハウアーの影響を抜け切っていないこと、ワーグナーを讃美していること、ロマン主義を引き摺っていることにおいてでした。フーコーも、狂気なり非理性を言語活動、現代文学の言語において捉えるとき、「想像力の永続的な価値を引き合いに出している」、過度にロマン主義的である、といわれてしまうのかもしれません。『哲学の舞台』での講演記録では、「産業資本主義」に言及していますが、『狂気の歴史』の段階ではそのような視点はなく、文学などに依拠しているという点では、後年のフーコーの社会分析とは異なるということかもしれませんね。
「フーコーは、彼が見るものによっても、また彼が聞き、読むものによっても、同じようにいつも魅惑され続けた。そして彼の考えた考古学は「視聴覚的な」古文書(アルシーヴ)であった(それは科学の歴史から始まることになる)。」→正直なところ自分には、「視聴覚的な」アルシーヴ、アーカイヴということでドゥルーズがなにを言わんとしているのかよく分かりません。ただ、ドゥルーズ(そしてガタリ)のフーコー理解というのは、「言説的実践」と「非言説的実践」の微妙にずれた関係が問題だ、ということです。その非言説的な実践のほうを「視聴覚的な」アーカイヴといっているんでしょうか。非言説的な実践というのは、狂人や犯罪者らに関してなにがどのように語られていたということとは相対的に別箇に、精神病院や監獄でどのようなことがおこなわれていたか、というようなことですが、それが「視聴覚的」といえるのかどうかはよく分かりません。
Ustreamの時間のようなので、続きは23:00以降、NHK FMでジャズ・トゥナイトを聴きながらにしましょう。
自分が考えて書き留めたことを読み返して、自分でいやになりましてね。つまらないと思った。だから続きは書きません。その代わり雑談を書きますが、そもそもジャズ批評家の仮説を検証するというきっかけからフーコーを再検討していますが、これがなかなか難しい。私は貧乏で、フーコーも全部持っているわけじゃないんですね。でも、持っているものに関しては、読み返しました。『臨床医学の誕生』、『狂気の歴史』、『知の考古学』等と読みました。それで困惑しているというのが正直なところです。それは歳も取ったから、高校生の頃よりは少しは理解できますが、パーフェクトに曇りなく理解できるというところまでは到底行きません。フーコーが書いているようなことを、音楽の美学とかジャズの美学、考古学というかたちで応用できるのかというと、単に難しいというか、無理なんじゃないかな、としか思えません。私の発想が平凡、凡庸、退屈、つまらないものなだけかもしれませんが。前も言いましたが、私は極論や突飛な主張は控えるように心掛けているのです。