エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社)、p.15-16.

問題の病気のことを最初に教えてくれたのは、ビルだった。たしか、1981年のことだ。彼はこの病気による死者の最初の臨床報告をアメリカの医学雑誌で読み、帰国した。彼自身よくわかっていない様子で、半信半疑の口ぶりだった。ビルはワクチンを製造している大手製薬会社の研究所の所長である。その翌日、ミュージルと二人だけで食事をしたとき、ぼくはさっそく、ビルがあちこちで喋っている心配について話した。彼はきゅうに身をよじって大笑いし、長椅子からずり落ちた。「同性愛者だけがかかるガンだなんて、まさか、できすぎた話で信じられんね。まったく滑稽だよ!」そのとき、ミュージルはすでにレトロウイルス(RNA腫瘍ウイルス)に感染していたのだ。潜伏期間はまさに6年だった。そのことはこの間ステファンヌから聞いて知っていたし、いまでは周知の事実だけれど、多くの抗体陽性者の間にパニックが起きないよう、公表はされていない。ミュージルを大笑いさせたあの日から数ヶ月後、彼は深刻な抑鬱状態におちいった。夏のことだ。ぼくは彼の電話の声をおかしいと感じ、自分のステューディオから不安な気持ちで、となりのバルコニーをじっと眺めやった。そんなわけで、つぎの作品を《亡き友へ》捧げることになるまえに、一冊の本をひそかにミュージル、つまり《ぼくの隣人へ》捧げた。彼がバルコニーから身を投げるのを恐れて、ぼくは目に見えない救助網をこっちの窓からむこうまで張りわたした。どんな病気かはわからなかったけれど、声からして、そうとう悪いにちがいない。あとで知ったことだが、彼はそれをぼくのほかには誰にも打ち明けていなかった。その日、彼はこう言ったのだ。「ステファンヌは私に夢中だ。私という病気にかかっていることがようやくわかった。こっちがなにをしようと、彼にとっては生涯、それは変わらないだろう。私が死ねば、話はべつだが。彼をその病気から解放するには、きっと私が自殺するしかないのだ」けれども、目の表情はすでに死んでいるようだった。

エルヴェ・ギベール『ぼくの命を救ってくれなかった友へ』(佐宗鈴夫訳、集英社)、p.18-19.

晩年くらいミュージルがよく笑ったことはない。ナシエ先生がいなくなると、彼は言った。「きみの友だちには、こうアドバイスしてやったよ。要は、人が死ににやってくるんじゃなくて、死ぬ真似をする施設にすべきだとね。実際、豪華な絵画がかざられ、甘美な音楽が流れて、実にすばらしい場所になるだろう。だがそれはただ真実を隠すだけのものなんだ。病院の奥には、小さな隠し扉がある。たぶん、夢をあたえてくれる絵画のどれか裏側にでも。注射の陶酔のせいで気怠く聞こえる音楽につつまれながら、人はこっそりこの裏側に入りこんで、ぱっと姿を消すんだ。誰の目にも死んでいるように見えるだろう。そして、気づかれることもなく、壁の反対側から荷物ももたずに、ふたたび裏庭へ現われる。手ぶらで、名前もない。これから、あたらしい自己を作っていくのだ」

佐宗鈴夫「エルヴェ・ギベールと本書について」、同書、p.269-270.

憎んでいたと言えば、ギベール自身がはっきり名指ししている相手がもうひとりいる。エイズワクチンを接種してやると約束しながら、その約束を果たさなかったワクチン研究所の所長ビルである。ビルのモデルが誰であるかは詳らかにしないが、実在の人物であることはまちがいないだろう。やはり「リベラシオン」のインタビューのなかで、彼はこう述べているのだ。「彼がぼくの命を救ってくれなかった友人なんです。ある意味で、犯罪です。ああいう扱いを受けて、ぼくはほとほと参りました。こっちはこの本でひどい目に合わせてやります。本は彼に思い知らせてやるぼくの武器です……彼を生かしておくべきでないかどうか、彼のワイングラスのなかにぼくの血液を一滴たらすべきかどうか、真剣に考えました」

こんな風に周辺の人々にはげしい憎しみをいだいていたギベールは、必然的に孤立していかざるをえなかっただろう。彼は本書のなかでこう書いている。「ぼくは自分が人を愛していないことを知ってしまった。いや、ちがう。たしかに、愛してはいない。むしろ憎んでいる。すべては憎しみ、ずっと以前からいだいているこの執念深い憎しみのせいだろう。ぼくはあたらしい作品にとりかかっている。作品が友だち、話し相手であり、いまや我慢できるたったひとりの友だちだ。食べるときも、寝るときも、いっしょだし、楽しい夢も、恐ろしい夢も、寄りそって見る」これは本書をローマで書きはじめたときの、ギベールの正直な心境だったのだろう。もはや彼に残されていたのは作品を書くことでしかなかったのだ。

ギベール自身、「自分がもっとも生き生きしているのは書いているときだ」と告白している。体重わずか38キロの痩せこけた身体で、彼はその後も、執筆をつづけるのである。そして、91年には、"Le Protocole compassionnel"と"Mon Valet et moi"が出版され、92年には、"L'homme au chapeau rouge"と"Cytomegalovirus"が死後出版されるのだ。今年の1月に出された"Cytomegalovirus"などは、91年9月17日から10月8日までのきわめて短い間の入院日記で、わずかな命の残り火をともすように、数行から数十行の文章が断片的に書きつづられているが、最後はロウソクの炎がすうっと消えるように終わっている。実際は退院とともに終わるのだが、そんなはかない印象が残る入院日記である。あるいは、ギベールが文章を書くことで燃やし続けていた命はそこまでだったのかもしれない。もはや自殺するしかなかったのか……