「ルイのこと」「ミシェルのこと、ルイのこと」

ミシェル・ロワ「ルイのこと」(市田良彦訳、『批評空間』誌第II期第10号)、p.82

私たちの友愛の契約の、あるいは他のどんな名前で呼んでもかまわないものの中身は、二人ともつねに心得ていた。契約の文言は、必然の中に書き込まれていたから。あの日、エラスムス通りで私が涙したのは、その文言をわざわざ言い立てることの不適切さゆえであり、露骨なまでに契約条項を正確にしなくてはならないと彼が思ったことに対して、である。おまけにそこには、非難にも聞こえるほとんど攻撃的な荒々しさがあった。しかし彼は私の涙の意味を誤解したと思う。なぜなら、こう言って私を慰めようとしたからである。僕も君を抱きたいと願ったかもしれない、けど、僕の性器は、役立たずなんだ……こう言いながら、彼は自分の股間を恨めしそうに、また守るように指さした。あたかも、そのかわいそうないちもつが生き物であるかのように。続けて、慰めになりうるだけでなく、私を天の涯にまで一足飛びに連れて行くような二つのフレーズを口にする。その後私が何度も彼の口から漏れるのを聞いたフレーズである。「うっとおしいのは、体をもっていることなんだ」、「体で愛し合う、そんな天に唾するようなことをしちゃあいけないんだ。頭で愛し合うほうがずっとましだ」。私の沈黙が何を隠しているのか知ろうと、彼は強く聞いた。それでいいかい? もちろん、いいに決まってるわ!

市田良彦「ミシェルのこと、ルイのこと」(『批評空間』誌第II期第10号)、p.99

妻を殺害し、人の記憶と自分の記憶の区別がつかず、借金は忘れ、フェラーリを注文し、精神の崩壊をつねに恐怖するアルチュセールは、それでもしかし、自分がすでに「狂人」になっているとは見なさなかった。彼の引き起こした厄介事の後始末に奔走するミシェル・ロワを、僕は「狂人」ではない、自分のことは分かっている、と怒鳴りつける。実際、彼はどんな精神分析家よりも自分の状態を知っており、どんな精神分析家も論駁することができた。哲学者は精神分析家に治療されることはあっても、解釈されることはない、と信じていた。「真ナル観念」が、精神分析とは別の回路で彼を彼の内在に繋いでいるのだから。

市田良彦「ミシェルのこと、ルイのこと」(『批評空間』誌第II期第10号)、p.95

アルチュセールは、哲学とは境界線を引いて分ける実践であり、その境界線そのものであると言っていなかったろうか? 彼の書くものに度々飛躍が見られ、周りの者がしばしば「もう付いていけない」と感じるのは、新しい境界線を引いて分化が起きる度ごとに、彼が、自身で「墜落 chute」と呼ぶ精神の闇、意識の空白への遡行を行っているからである。そこを経由することで系列は分化しながら延びて行くが、そこを経由しているから、他人には何が起きているのか見えない。彼は繰り返し言う、自分の思考方法は、極限において考えることである、と。未完のテクスト「マキャヴェリと我々」は教えてくれる、この「極限」とは一つの「空白」のことである、と。「空白」に向かって身を投げよ! そして数々の書簡は示している、この「空白」は意識の空白でもあった、と。もちろん、「極限」は系列の無限遠点に位置していて、系列の分化・展開・重ね合わせの過程を吸引する。たとえば「私」の死として。

「私はいつも自分の喪に服していた。おそらくこの喪を、私は退行的な奇妙な欝状態において生きていたのであり、そうした状態は本物のメランコリーの危機ではなく、躁状態の時期に私を襲う全能の感覚を振り回しながらこの世において死ぬという矛盾に満ちたやり方だったのである。すべてに対する全能に等しい完全な不能。」

この「極限」もまた一つの「橋」、全能と不能を繋ぐ「距離」なわけである。それがアルチュセール的なtotum=nihilだった。しかし世界と私を同時に消滅させる自死以外によっては、そんな死は実現されえないし、度々訪れる「空白」は系列の突端にある死を今に手繰り寄せながらも、つねに「最後から二番目」にしかなりえないのである。たとえば『ルイのこと』が緊迫感をもって報告する、1979年12月の「崩壊」。アルチュセールは1月1日、ミシェル・ロワに「12月28日、すべてが崩壊した」と告げる。すでに12月初めから、彼は自分の精神分析が終わりに近づきつつあることを示唆し、これまでの生のすべてが再審に付される何か重大なこと、奇跡によるのでもなければ脱出できないだろうことが起きつつある、と語っていた。ここでは、自伝のアルチュセールが、トラックのせり上がる荷台から砂利が一挙に流れ落ちるカタルシスの瞬間として語っている「分析の終わり」が、現実には最大級の恐怖として体験されていると分かる。彼は「すべてが崩壊した」、と思った。しかしすべてが「崩壊」することで「白紙」に戻った彼は、生き延び、復活祭休暇のギリシア旅行ではショスタコヴィッチの存在しないピアノ・ソナタが鳴り響く至福の時を過ごす。「崩壊」は繰り延べられた。11月16日、日曜日の朝の、エレーヌの生の破壊のときまで。最後であるから最後となれずに先送りされる、こんな「崩壊」を、アルチュセールの生の軌跡は数十年間描いている。「極限」はそれ自体、最後と最後から二番目の間の分化、「空白」の点である「あれもこれも」、二つの選言肢、なのだ。