言葉は無限に溢れ出て〜攝津家の崩壊

両親は75歳の高齢で、私は36歳の働き盛りである。(働いてないが。)「家長」というような表現や概念はもう古臭いかもしれないが、高齢の両親に代わって、息子の私が攝津家の家計を切り盛りせねばならない。だが、私には、商才も経済観念もない。一応、家計簿をつけているが、毎月赤字なのをどうすることもできないし、良いアイディアもない。
「攝津家の崩壊」としたが、本当は、「芸音音楽アカデミーの崩壊」としたかった。「攝津家の崩壊」としたのは、「アッシャー家の崩壊」に引っ掛けた洒落である。
芸音音楽アカデミーは多いときには会員(生徒)が140人超もいたのだということだが、今は6人しかいない。そしてさらに減りそうな感じである。これでは生活していけないのは明らかだ。だがどうしたらいいかまるで分からない。
私は、一家心中というアイディアを出しているが、両親は(75年も生きたというのに!)反対の模様である。ただ、彼らに話を聞くと、「生きてさえいれば何とかなる」としか考えていないようで、どうしてそんなに楽観的になれるのか私にはどうしても理解できない。私は悲観主義である。
金がないなら生きていけないのは自明だろう。誰にもどうすることもできない。他人の助力をあてにするのは間違っている。だとすれば、「自己責任」で自分で自分を始末すべきなのは当然ではないのか?
私はよく、山中貞雄(だったと思う)の『人情紙風船』という映画のことを思い出す。主人公の一人は、どうしても就職(仕官)できない侍である。ラストで、その侍の奥さんが寝ている侍の首を短刀で掻き切って殺害し、自分も自害する。結局、それしかないよなあ、といつも思うのだ。
私は自分が生き延びられるとも、生き延びたいとも全く思わない。生きるということにはもううんざりしている。正直、いつ死んでもいい。20万ドルあればゴルゴ13に私自身を狙撃するように依頼するところだが、そもそも20万ドルのカネがあれば自殺しようなどと思わないだろう(笑)。
多くの人は死ねないから生きているだけなのだそうだが、私もそうだ。そして私は、生存を「無意味で苦痛」と看做している。音楽と性はその苦痛を一時的に緩和する。だが、それだけである。根本的には私の生は病んでいる。病み疲れている。「一家の大黒柱」などと呼ばれたりするが、心も折れている。

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