言葉は無限に溢れ出て〜生きている意味なし!

船橋市北図書館で香山リカの自己愛や私探しを批判した新書を借りてきた。
ぼんやり考えていたが、ナマケモノ倶楽部はローカリズムを謳うが、私は超ローカリズムだ。船橋どころか二和向台を出ないのだから。しかし、歩いているとよく分かるが、二和向台は駄目な街だ。商店はどんどん潰れている。儲かっているのはTSUTAYAくらいなもの。もちろんわが芸音音楽アカデミーも潰れ掛かっている。いやもうほとんど潰れているといっても過言ではない。
昔の武士なら「腹かっさばいて…」とかなるところかもしれないが、私は侍じゃないし、それに切腹は痛そうだ。日本刀も持っていない。Ustreamで、自分で自分を去勢して(チンポをちょん切って)そのまま出血多量で死のうかというアイディアを話したことがあるが、nakachiyiamiさんから、絶対後悔するからやめたほうがいいと言われた。「なんで? そのまま死ぬんだから別にいいじゃん」と私が言うと、nakachiyamiさんは、激痛で死ぬまでに後悔するんだ、と言う。そういうものかもしれない。
自殺というと人聞きが悪いから、病死や事故死に偽装するのが良いかもしれない。しかし良いアイディアは浮かばない。そういえばこの前彼氏と御滝不動尊に御参りに行ったとき、御滝公園を通って、「ここで近所のお爺さんが首吊りしたんだよ」と言うと彼氏が、「首吊りって全部(糞尿が)出ちゃうんだってね」と言う。そういうものかもしれない。
だがほかに良い案もない。
香山リカの本、まだ読んでないが、序文に私など探さなくてもここにいるじゃないか、的なことを書いていて、彼女は「自己バラバラ事件」を経過していないんだな、と感じた。私は昔から(小中学生の頃から)膨大に原稿を書いていたが、中学生の時に書いていたものを「カタログ」と呼んでいた。ホール・アース・カタログでもラム・カタログでもなく、ばらばらに砕け散った私のかけらを拾い集めたカタログという意味だ。その意味でTwitterSNSやこのブログを含め、数十年にわたって私が書き綴っているものは全て「カタログ」なのかもしれない。或る人が、自分のことを、「私語り」に終始している──だから駄目だと批判したと聞くが、それはその通りだと思う。私は私自身にしか興味関心がなく、私自身しか愛していない(或いは、私自身すら愛していない)ので、「私語り」しかできないし、ほかのことには興味がないのだ。好奇心が全くない。私にとってあらゆることは、生は、退屈である。すべてが既知であり、同じことの繰り返しである。

<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)

<じぶん>を愛するということ (講談社現代新書)