今日の呟き

楽器の練習しながら虚無を自覚した。って言うと大袈裟だが、自分がいかに酷い奴かということをずっと考えていた。3.11以降何もしてこなかったし、今もしてないし、今後何かするつもりもない。義援金も1円も送ってないし、ボランティアに行く気はそもそもなかったし、反原発デモも躊躇してやめた。
哲学・倫理、文学、政治・経済、経営・労働など何をやってもダメなのも、他者という範疇が欠落しているからだと思える。自分にしか興味がない(或いは自分にすら興味がない)人に小説は書けないし社会運動も無理だ。それは致し方がない。そして僕には一切の向上心がない。
他人とか社会とかいう次元が欠落しているし、そういったものへの興味関心もゼロ。利他心もゼロ。さすがに親や恋人が何を考えているかくらいは推測するが、それをこえた他人や社会への関わりは全くない。
このまま順調にいけばあと三箇月で攝津家の家計は破綻するが僕には状況をどうにかするために「動く」「働く」つもりは一切ない。精神科医は働けと言うが無視している。金がなくなれば死ねばいいくらいに思っている。高齢の両親は気の毒だと思うがしょうがない。「僕がこういう人間なのは僕の責任ではない。」
他者や社会に無関心なのだと思っていたが、「生」そのものに無関心で興味もないと分かった。だから正確には「自己愛性」人格障害でもない。愛すべき「自己」そのものがないのだから。単に虚無的であるというだけで、それは医療や社会福祉の対象じゃないということだろう。
僕が前向きに生きるつもりが一切ないのは誰のせいでもないし、僕自身のせいですらない。たまたま自分がそういう人だというだけのことだ。
惰民、自分苦、生存困難系…様々な言葉で状況を語ってきたが、最終的には「虚無的」というところに収斂する。何をする意欲も能力も根本的に欠けている、ということだ。だから状況が逼迫しても何もせず、ただ傍観しているだけ。
自分もこれまではいろいろ試行錯誤してきたと思うが、失敗に終わったのは事実だし、それは自分の能力の限界であるので致し方がない。社会(世間)に俺を認めろなどと言うほど僕は傲慢ではない。
そういう酷い奴であるので鎌田哲哉から「汚い」などと罵られるのも致し方がないのかもしれない。しかし分からないのは、そんな「汚い」僕に「寄稿要求」を義務だなどといって強要したのは何故かということだ。が、僕には鎌田さんのことがまるでわからないので、動機を詮索しても無益だろう。
後3ヶ月で金が尽きるのに働く意思ゼロ、もうどうにでもなれとやけっぱち、死も覚悟している。ポスティングしても会員など集まらないのはわかっている。八方塞がりだし、状況を打破する知恵も能力も自分にはない。というか、本当に本気で「何もしたくない」。だから現に何もしていない。
何もしないことが理想で何もしていないのだから、それでいいじゃんと思う。ちょっと親は可哀想だと思う。だが諦めてくれ、と思う。僕は非情である。
僕は変われないし、変わる気も一切ない。ネガティブな自分のまま生き、死んでいく。親であろうとそれに干渉することは絶対にできない。
自殺願望を語る僕に、精神科医は「働け!」とだけ言う。でもだったら僕は「死」を選ぶよ。死ぬか働くかの二択ならばね。
一切の倫理道徳人倫の、全面的で絶対的な拒否拒絶。それが僕の唯一の意志。