メモの続き(2)

私はまるで、自分(の生)には意味がない、と絶叫し続けているような感じで、それこそそんな営みには何の意味もないだろうと思うのですが、やめられません。それだけが生き甲斐なのです。もう愚痴というか、悔恨だけしかない感じかもしれないですが、それでもいいのです。叫び続けるくらいしかすることがないのです。孔子は、小人閑居して不善を為す、と言いましたが(『論語』)、そのようなものです。私は自分は超人だと言ったりしますが、実態は小人(しょうじん)なのです。せこいというか、ケチの極みというか、もう二和向台を出ません。引き籠っています。というと、「本物のひきこもり」の人に失礼でしょうか。よく分かりませんが、自分は自分の狭い生活圏から出ようとしません。基本的に東京にも滅多に行きません。交通費が勿体無いからです。そこまでケチに生きて、何が楽しいのか言われるかもしれませんが、それは自分でも疑問です。CDだけは買います。本は図書館ですが。船橋市の図書館ではCDの貸し出しはしていないからですが、もし、図書館でCDの貸し出しをしていたら、確実に、CDも買わずに図書館で済ませていたでしょう。実際新浦安の物流倉庫で働いていた頃は、浦安市の図書館でCDを借りて聴いていました。仕事を辞めたので、浦安まで行く交通費が勿体無くてやめているだけです。
自分の苦しみは、社会的、経済的なものです。世の中から認められず、収入も非常に少ないということです。2ちゃんねらーは、私に、働け!と言います。しかし、私は聞く耳を持ちません。労働拒否です。昔、不登校のことを登校拒否と言ったように、労働拒否なのです。自分は企業や工場などで働くのは厭です。他人と一緒に仕事をするのは嫌です。賃金労働をする、他人から雇われるのは二度と嫌です。だから、名目だけとはいえ、自営業を続けています。しかし、数か月前から看板を掲げている「攝津正塾」にはいまだただ一人の塾生もいないのです。もう終わっている、駄目だ、何をどうしてもどうにもならぬ、と絶望しています。しかし、それでも、生きねばならぬ、と思います。虫けらのような生だと思いますが、それでも、生きねばならぬ。ここで、生は義務なのか?と問い返したくなります。自分にとっては生は権利ではなく義務であるかのようです。労働がそうであると言われているように(日本国憲法に定められている、労働、納税、教育の義務)。自分にとって基本的に、生は喜びではありません。むしろ苦痛です。私は神経性の苦痛に日々喘いでいます。音楽は麻薬のようなものです。つまり、生=苦痛を軽減する手段です。音楽聴取に身を委ねる私は、緩慢に自殺しているのであり、生そのものを放棄しているのです。生きることの絶対的な放棄、それだけが私の追求すべき主題です。私は生の哲学者ではなく、死の思想家です。思想家などと言うのも大袈裟かもしれません。暗鬱な、死のイデオローグ、とでも言ったほうがいいかもしれません。基本的に自分の認識、言葉、表現は暗鬱です。何処にも希望らしきものは見えてきません。私の言葉は呪詛です。どうして生まれてきたのか、何故生きねばならぬのか?という誰に宛てたわけでもない不断の問い掛けです。それが特に哲学的だとも思いません。むしろ通俗的で平凡です。そしてそれでいいのだと思っています。