メモの続き

ふたわ診療所の精神科でセカンドオピニオン受診するのはやめました。精神科を信頼していないからですが、金がないからでもあります。自分には3000円でも惜しい。ただ単に話を聞いて貰うだけで3000円払うのは勿体無いと思いました。それがキャンセルの理由です。同様にこころのドア船橋でのカウンセリングも不可能です。というのは、自分には9000円など払える額ではないからです。私は貧乏なのです。メールカウンセリングをしてくれたカウンセラーのところに通うのも断念しようと思います。
そもそも、私は、自分が病気なのかどうかも分かりません。私は単に救われないジャズオタクであるだけではないか? 精神科的治療は必要なのか? 意味はあるのか? もし意味があるとすれば、精神障害障害年金を受給できる場合だけでしょう。しかし、それはできない。前通っていたクリニックの先生も、佐々木病院の主治医の方々も、皆さん障害年金には否定的でした。障害年金が取得できるような診療所に転院するというのも筋が違うと思うし、そうする気力や元気もないのです。私よりも病状の軽い人でも年金を貰っている、と友人から言われたこともあります。確かにそういうこともあるかもしれません。しかし、私には、何というか、うまく立ち回ることができないのです。金のためなら何でもする、ということができない。その気概もない。
私は勝手に、自分のことを、無意味性人格障害とか、意味不明性人格障害とか、「人生に絶望する病い」などと呼んでいます。つまり自分には(社会的に、他者から承認された)意味なり価値を生産する能力が欠如しているのです。私はピアノを演奏し、文章を書きます。しかしそれには、何の意味も価値もないのです。単に「記録(ドキュメント)」であるだけです。私は記録にはそれなりの意味(?)があると思って続けています。
私の自叙伝執筆を手伝おうという人や、私の記録映画を撮影しようという人も現れました。だからといって、私の生が意味づけられるとか、充実したものになるとは思いません。自分が有名になったり、売れたりすることもないでしょう。それは断念しています。しかしそれでも、記録し続ける(自分で自分の営みを記録し続ける、そして他人に自分を記録して貰う)ことに意義を見出しています。誰かが、「こんな人が生きていた」と気付いてくれるだけでいい。そう思います。自分の生が特異だとか例外的だとは思いません。私は平凡です。そしてそれでいい、と思っています。哲学者=作家=音楽家の看板を掲げてはいますが、実際には、「どうでもいい無」なのです。無名だし、やっていることに価値もありません。「自己価値化」もできません。自分で自分の生を意味づけることもできません。そしてその不能、無能に踏み留まっていていいのだ、と思っています。自分は性機能障害で性的不能(インポテンツ)であるのみならず、「生」的不能、よく生きることの不能でもあると思っています。自分は他者を顧慮することも、社会に貢献することもできません。無意味な屑のような存在です。でも、それでいいと思っています。自分は大学、大学院に残ること、研究者になることもできませんでしたし、作家として筆一本で喰っていくことも、音楽で身を立てることもできませんでした。そして普通に働くのにも挫折しました。だから私は、自分は死ぬべきだと思っています。ありとあらゆる可能性に挫折したのだから、残された道は死しかない、と。しかしそれでも、死に切れないのです。情けないことですが、それが自分の実情です。頭では自分は死んだほうがいい人間だと思う、しかし、実際に死ぬ勇気は出てこない。だから怠惰に、だらだらと無意味に生き続けるしかない。終わった人間の暇潰しに過ぎないのにTwitterで呟いたり、YouTubeUstreamで動画を配信したり録画したり、そんなことに何の意味や価値があるのでしょう。私は有名人でもないのに、私の日常などに誰が関心を払うでしょう。しかし、例え何の意味もなくとも、自分は自分の営みを続けます。1円にもならないとしても。「仕事」にはならないとしても。