随筆

68年革命の45年革命=戦後民主主義に対する優位は、赤軍や革命戦争といったかたちでの軍隊や戦争の肯定にある、と主張する人がいる。それに対して自分は、45年革命=戦後民主主義反戦平和主義に賛成である。ただ、戦後民主主義にもそれ自体としての限界はある。GHQが「上から」与えた権利なり自由の主張だということがそれである。
ヨーロッパにおいてもアメリカにおいても、近代的な国民国家が成立するにあたって悲惨な市民戦争、内戦をくぐり抜けてきた。日本の歴史にはそれがない。明治維新は、徳川幕府から薩長への、統治者内部での権力委譲であり、45年革命は、アメリカ=GHQに与えられたものである。市民ないし統治される者らが自ら立ち上がって、統治者を倒した、乃至追い詰めた例は稀である。60年安保闘争の国会包囲デモがそれに一番近付いたかもしれない。或いは、戦前でいえば、米騒動などがそれに当たるかもしれない。だが、政治権力を打倒する革命にまでは至らなかった。
ブルジョア革命とプロレタリア革命を分けるとすれば、日本においてはブルジョア革命の経験もなく、既にそれを経過した国々から政治や経済の制度だけを輸入したという経緯がある。当事者目線(佐々木俊尚)というより統治者目線でものを考える習慣が、民衆自身に染み付いているように思える。マスメディアが嘘を報道しているのでないなら、この国の人民の6割が増税に賛成していることになるが、もしそうなのだとしたら、この国の「統治者目線」で考える習慣は絶望的に深く根付いている、ということになると思う。
佐々木俊尚は、展望も代案も政策提案もなく騒ぐ、反対するだけの人々を「ノイジーマイノリティ」と呼んでいるが、自分の考えはそれは否定すべきではなく、むしろノイジーマイノリティになるべきなのである。もっと声を挙げていいのに、そうすることを躊躇させる何かが、この国の風土にはある。意見を言うくらい、自由に無責任に言えばいいと思うのだが、意見を述べる時ですら「統治者目線」でするように暗黙に求めるような「空気」がある。そういう空気が読めない人間は「スルー」される。つまり、いないことにされる。
原発の問題であれ、増税の問題であれ、我々人民(と語って=騙って良いかは疑問だが)の課題は、「統治者目線」をやめることだと思う。単に「ノイジー」になることだと思う。どうだろうか。