生きる

私は呟いた。「生存は苦痛にして無意味なり」。或いはこうだったかもしれぬ。「生存は無意味にして苦痛なり」。どっちでもいい。生存=苦痛=無意味という等式が成立さえしていれば、それでいい。
私に対して、自分は生に意味など求めぬ、という人がいる。それはそれでいい。ただ私が、無意味を無意味として肯定する強靭さを持たぬ、というだけのことだ。
私は二和向台(の我が家)にひきこもっている。
今StickyBluesさんとその友達がいらして、私の写真をカメラで撮影している。映画制作の一環である。が、攝津正の映画など撮って、面白いのか? 自分には分からぬ。分からぬが、専門家であるStickyBluesさんらに任せている。
自分は勿論、「死にたい」と思っている。昨晩考えたのは、晩年の芥川龍之介のようにずっと死にたいと思っていて死ねず、長い苦しい時間を過ごすということもあるのだろうということだ。そういえば、友人の母親が先月の14日に首吊り自殺した。友人の説明では、欝病を14年患った後の自殺、とのことだった。自分もそうなるのではないか、と思う。欝で苦しんで苦しんで苦しみ抜いて、いつか「やってしまう」日が来るのだろう。その日をただ待つしかできぬのだろう。その思うと暗鬱になる。が、それが自分の現実だから致し方がない。