書くことはよい

昨日のUstreamで『日本語が亡びるとき』に触れ、「書くことはよい」「喋ることはよい」「表現、コミュニケーションは無条件でよい」「善悪、美醜の価値判断以前に、表現できるということ自体が素晴らしい」と大見得を切ったが、自分が書くものがそれほどよいものだとも思わぬ。ただ書きたいから書きたいものを書いている。話したいことを話している。ただそれだけだ。
自分の言語観は、水村美苗の文学的な言語観よりも、言語学者の言語観に近い。言語は変化するが堕落したり死滅することはない。あるとしたら最後の話者が死んだときである。そういう見方を自分も共有している。
語ること、書くこと、それをパフォーマンスといってもゲームといってもいいが、それを遂行できる限り、その言語は厳然と存在している。
さらにいえば、日本語がどうなろうと、世界に「話す」人が存在する限り、言語というものは亡びない。そういう意味で、自分は極めて楽観的である。

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で