ルソーとニーチェ

自分はドゥルーズを除いては、ニーチェをよく読んできたのですが、このところルソー、この多面的な才能に興味関心があります。
というのは、日本近代においては、西欧においては近代の極限から出てきたような思想家、作家、二人だけ挙げるならばドストエフスキーニーチェをその始めから摂取することで、何か遠近法的倒錯のようなものを犯しているように思うからです。我々は、近代を知らずして近代批判しているようなものだ、と思うのです。
私は最近、十年来の年少の友人である真哲君の唆しで「自叙伝プロジェクト」というのを始めました。そこでも、ルソーの『告白』は必須参照文献になります。或る意味、我々現代人は、告白せねばならぬし告白してはならぬという矛盾撞着に身を置かねばならぬのです。我々は幾らでも饒舌に自己を語るでしょう、しかるに、そうしたところで、何を語ったことにもならぬと思うのです。我々の告白は、作曲家やクラシックの演奏家よりも、リミックスやサンプリングをするDJに似ています。つまり、自己が語る(と思い込んでいる)ところに必ず、複数の他者達の言葉が入り込んでいるのです。まあこれも、凡庸な「ポストモダン」的認識ではあるのでしょう。真実の、或いはありのままの、自然な自己なるものはない。自己なるものは常に、捏造物であり、発明品である。このような認識が自分に独創的なものだとは私は思いません。1980年代以降、或いは1970年代以降(もっと前から?)それはありふれた考えです。しかし、ありふれた考えだとしても、我々がそのような思想状況を生きているということに変わりはない、と思います。
小林秀雄、この人の『Xへの手紙』は実に面白く、それ自身私小説として読めるものですが、彼はその有名な『私小説論』をルソーの『告白』(小林の表記では、ルッソオの「懺悔録」)を参照するところから始めていますが、それは思想史的にみて正しいと思います。モンテーニュにおいても、デカルトにおいても始まらなかった言説、文章がルソーから始まっているのです。そしてルソー自身は、多くの矛盾を抱えた多面的な著者です。ニーチェが喝破したように、ルソーには多くの悪意があり、そして怨恨(ルサンチマン)の虜だったでしょう、しかし、まさにそれ故にこそ、ルソーは面白いのです。ルソーの両犠牲、曖昧さはそこにあり、古典としての価値もそこにあります。
ルソーは近代的な国民国家の理論家=社会契約論者なのですが、自らそれを否定するような契機を持つというか、裏面を持ち合わせています。ルソーにおいて、公(社会契約論者、憲法の起草者)と私(告白する主体)との乖離、分裂が始まっているのです。
ルソーは有名な『エミール』のはじめのほうで、次のような逸話を紹介しています。

あるスパルタの婦人は、五人の男の子を戦場に送った。そして戦闘の知らせを待っていた。知らせの奴隷が到着した。彼女はふるえながら戦闘の様子をたずねた。「五人のお子さまは戦死なさいました。」「いやしい奴隷よ、わたしはそんなことをおまえにきいたのか。」「わが軍は勝利を得ました。」彼女は神殿にかけつけて、神々に感謝を捧げた。これが市民の妻だ。(ジャン=ジャック・ルソー『エミール』今野一雄訳、岩波文庫、上巻、二十八ページ)

ここでルソーは、「市民」(これは我々にとっては、むしろ「国民」というほうが理解しやすいでしょう)を称えているのでしょうか。そうではない、と私は思うのです。ここでもルソーは両義的であり、曖昧です。
社会契約によって市民の国を創設することを夢見るルソーにとっては、市民、いや国民の徳は讃美すべきものだったかもしれません。しかし他方で彼は、人間の自然な感情の回復を目指している。ルソーが描いたのはこの「矛盾した気持ち」「動揺」なのです。これは実に興味深い。
ルソーを読むことは、近代を読み直すことであり、我々自身を読むことなのです。

エミール〈上〉 (岩波文庫)

エミール〈上〉 (岩波文庫)