蓋然性の恐怖

21世紀の幕開けは9.11で、それに呼応して批評空間webに掲載された柄谷行人『これは予言ではない』を読んで、藤子不二雄の『やすらぎの館』という恐怖短篇集に入っている短編のことを思い出した。その短編は、よく当たると評判の老いた占い師が主人公で、彼がひきこもって予言をしなくなったというので、不審に思った新聞社の記者二人が占い師宅を取材に訪れる、という話だ。

老占い師は記者達に対し拒絶的な態度で、何故占いをやめたのか、全く語らない。そのうちに、新聞記事を大量に集めたスクラップブックが見つかる。そして、占い師が何も知らない幼い孫を抱き締めながら「おまえには占ってやる未来はないんだよ」と呟くのを記者達が目撃して戦慄する、というラストである。

これは、いわば蓋然性の恐怖とでも言うべきものを構成している。それはその作品が描かれた当時(1980年代?)の終末論ブームとも関連づけるべきだろう。占い師の態度は、超自然的な予言能力など必要ない、普通に報道されているニュースを追っていけば、世界が破滅に瀕しているのは自明である、というものだ。『これは予言ではない』における柄谷行人は、この占い師の態度を反復している。

ちなみに『やすらぎの館』には、蓋然性の恐怖を鋭く描いた短編がもう一つ入っている。「ころり転げた木の根っこ」というのがその題名で、主人公はマッチョで妻に頻繁に暴力を振るう暴君的な夫と、彼に忍従し続ける妻である。夫の会社の後輩社員がその男の家を訪ねる。男は、夕食時、些細なことで妻を殴り、後輩に対し、妻(女性)にはこう接するべきなのだ、と自慢する。詳細は省くが、この短編でも新聞記事を集めたスクラップブックが重要な役割をしていて、実は妻は、病気や怪我、事故などのニュースを丹念にスクラップしていて、夫が病気(生活習慣病)になりやすいような食事など生活環境を作っていた。後輩社員はそれを目撃してしまい、戦慄する、というのがこの作品のラスト。

ここでも蓋然性がキーワードになる。妻はDV夫に直接、反抗するわけではないが、その怨恨や悪意は深い。夫が病気に罹患したり怪我をする確率が高いような環境を作ることによって無言のうちに復讐する。それが直接的な反抗よりもずっと恐ろしいものであることをこの作品は告げている。

9.11から十年が経って3.11、東日本大震災と大津波、そして福島第一原子力発電所の事故に際しては、高橋葉介というあまり知られていない漫画家の、『ヨウスケの奇妙な世界』に入っている短編、「墓堀りサム」を思い出した。『北斗の拳』もそうだが、核戦争後の地球をテーマにした近未来SFが膨大に書かれたが、その作品もその一つである。それは、村を訪ねてきた帽子の男と村の少年との、奇妙な友情が主題である。種を明かせば、帽子の男はロボットであり、墓掘り人である。人類は放射能によって死滅しつつあり、人類が死に絶えた後も死者を墓に葬り、弔うのが彼に与えられた役目である。彼が村にやってきたということは、放射能が村にも迫り、村人達も全員死ぬしかないことを意味している。何も知らない少年の問い掛けに対し、男は取り外せるようになっている顔面部分を取り外し、歯車などを露出させて、自分がロボットであることを明かし、上述の事実を少年に伝える。この物語のラストは、その少年も含めて村人全員が死亡したのち、男が黙々と墓を掘り続ける、というものである。

私がこの漫画を思い出したのは、やはり静かに日常性が死滅しつつあると感じているからだろう。かつてSF作家が想像したような、世界最終核戦争以後の世界というありようではないが、チェルノブイリ以降、フクシマ以降の不安で不気味な生のありように通じる何かを、この作品は持っているように思う。