老いるということ

辻さんと三砂さんの『だきしめてスローラブ』という本が良かったと言おうと思っていて、恥ずかしくて言えなかったのですが、思い切って言ってみようと思います。
そのうえで、異論というほどの異論ではないのですが、私なりに考えたことを書きたいです。

だきしめて スローラブ ゆるやかにしなやかに 男と女の性と愛

だきしめて スローラブ ゆるやかにしなやかに 男と女の性と愛

愛はスローなものだ、という論旨には賛成なのですが、この本での愛のイメージが、とても異性愛的なものにみえました。私はクィアなので、非異性愛者はどうなるんだろうか、ということを考えました。

ちなみに私は、話がよく分からないなという相手に対しては自分はゲイ(男性同性愛者)だと言い、少し話が分かるかもという相手に対しては自分はバイセクシュアルであると言い、よく分かり合えると思う相手に対しては自分はクィアだと言います。クィアというのは性的少数者(セクシュアル・マイノリティ、LGBTIAQs)のことですが、日本語に訳すと「オカマ」という意味です。ウィリアム・バロウズという小説家にそのもののQueerという題名の小説があって、ペヨトル工房から出版されていますが、邦訳の題名は『おかま』になっています。

おかま

おかま

女性が出産をするということについて、その意味などが語られているのですが、それも、ジェンダー規範(男らしさや女らしさ)を強化する議論のように思えたのでした。

そうはいっても、ジェンダー規範、言い換えれば既存の男らしさや女らしさなどといったステレオタイプやイメージを解体したところで、無しか残らないのであれば、意味がないとも思います。辻さんが、男性は男性なりに新しい男性性を(既存のマチスモなどとは違うかたちで)発明しなければならないという意味のことをおっしゃっていますが、それには同意します。

ところで、以上のようなことを語るメールの件名が何故、「老いるということ」なのかというと、老い、ないし加齢ということと、「スローラブ」を繋げて考えざるを得ないからです。私は、2003年、イラク戦争に反対しましたが、道行くサラリーマンやビジネスマンから、君はまだ子供だから日米同盟の重要性が分からないだけだみたいな絡み方をされたことがよくありました。しかし、今はもう2011年。私も36歳になります。36歳にもなって、相変わらず凡庸な、ありふれた反戦平和主義者で、憲法9条護憲(改憲阻止)の立場だというのは、大人に、社会人=会社人になりそびれたということなのかもしれないですが、しかし、精神年齢は幼稚でも、肉体は確実に老いていきます。現実の私は、くたびれた中年男なのです。

そして、くたびれた、特に魅力も財力もない中年男として、自分の愛と性について考えざるを得ません。今日、ポプラ社のピュアフル大賞を受賞した倉数茂さんんと話した時にも言ったのですが、私は、本当は、クィア小説、ゲイ小説(ジャン・ジュネウィリアム・バロウズのような)が書きたかったのですが、自分自身の現実の恋愛体験、性体験が余りに貧弱なので断念したという経緯があります。私は、自分自身で、自分のことを「同性愛者失格」だと思いました。まあ、こういうのは失格も合格もないのかもしれませんが。

時間は逆戻りできない。だから、今後の私は、中高年になり、老いていく身体を持った者として、生きるしかないということなのです。スローワークとスローラブを目指して。老いるということは、このMLで話題になった、「降りるということ」とも関わるかもしれませんが。