攝津正随筆

浜松在住のフリージャズが好きな友人が、荻窪のヴェルヴェットサンにスガダイローのライブを聴きに行くついでに、船橋芸音音楽アカデミーを訪ねてくれた。昼過ぎとのことだったが、遅れて、五時頃いらした。
友人は、暖かい缶コーヒーとお菓子を差出してくれた。私は、麦茶を淹れる。
母親も降りてきて、三人で話すが、私が津軽三味線とピアノを2曲ずつ披露する。
私がひきこもっているので、友人は、外を出歩いたほうがいいと言う。だが、貧乏人、金がないのだ。交通費がない。だからライブにも参れない。
経済学の本を山と積み、利益を上げるビジネスモデルがないか考えてみるが、どう考えてもない。あり得ない。不可能、と思う。
メールをチェックしたら、ルネサンス研究所からニュースレターが届いていた。現代の共産主義をどう考えればいいのか、私にもよく分からぬ。スティグリッツは良心的な経済学者であり、不完全情報と不完全な市場を前提にものを考えている。だが、スティグリッツも、資本主義を延命させるために仕事をしているのだ。というか、資本主義が延命できないとはどのような状況を言うのか。
資本主義はグローバルなレベルでもローカルなレベルでも危機にある。グローバルなレベルでいえば、金融危機。ローカルなレベルでいえば、シャッター通りなど地域経済の疲弊。
私は、地域通貨研究所、地域通貨の部屋を開こうかと考えてもみる。だが、それが、実効的に地域経済を好転させる見込みがない、と思い直す。中小零細企業や自営業者らが生き延びる道は別に探さねばならぬ。或いは表現者として生き延びる道も。
私は、私の文章や音楽を1円とか10円で売ることを想像してみる。現実的ではない。ネットは無料という文化がある限り、儲からぬ。儲けることを期待しては駄目だろう。だが、最低限の生存を継続しなければならぬのだ。どうすればいい?
話を終えて友人を二和向台駅まで送って行ったが、途中、生鮮市場が潰れた跡や、書店が潰れた跡を見せた。売物件になっている。二和向台のようなところでも、栄えるのはマクドナルドやTSUTAYAのような大資本であって、中小零細は潰れていくのだ。この現実を前に、暗澹たる気持ちになる。
カラオケ教室やカラオケ屋も過当競争である。近くに、一杯300円の烏龍茶を頼めば幾らでも歌い放題の店があるらしいが、そのような低価格競争でうちに勝ち目はない。高齢者は、例え金を持っていても、多くの場合渋い。金を出したがらない。高齢者対象のビジネスモデルを、と言っても難しいのである。二和向台では高齢者らがマックやTSUTAYAに行っている。芸音音楽アカデミーにはこない。要するに、ケチということだが。我々も、立派な商品なりモノ・サービスを提供できているわけでもない。
どう考えても、生き残れない。どうすればいいのか。死ぬしかないのか。ということを考えた。私は、両親が亡くなれば、自由である。生きる義務はないのだから、死ぬ自由が与えられる、と思う。しかし、どうやって死ぬのか? 具体的な方法は考えつかない。生き残れないので死ぬといっても、難しいのである。
今こうして文章を打っているのは労働なのかどうか? まあ、一銭にもならないのは確かだが。書きたいから書いている。ただそれだけだ。生きたいから生きる。生きたくなくなれば、死ぬ。それでいいではないか。そう思った。