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文学者攝津正
http://www.geocities.jp/tadashisettsuliterature/

無能の人(2011年1月7日(金))

船橋市北図書館からいろいろ本を借りてきたのはいいが、集中力が持続せず、読めない。のみならず書けない。虚構も実録も、何も書けない。そのまま数日が経過した。自分は無能の人だと思う。何も出来ぬ。二和向台から出られぬ。家族以外と交流出来ぬ。一応芸音音楽アカデミーをやっていることになってはいるが、芸音は、実際は母親がやっているのであって、母親に何かあればすぐに、攝津家は喰いつめる。2ちゃんねらーが攝津正は将来のことも考えず、と言っていたが、考えている。暗澹たる将来のことを。どうやって死のうかと、そればかり考えている。「その時」になってみれば、死ねないものかもしれないが。私は、楽に死ぬ方法はないかと、そればかり考えている。『完全自殺マニュアル』などは暗記するほど読み返した。だが、自分に適合する自殺方法は見出せなかった。生きねばならぬ、とは思わぬ。生存は義務ではない。少なくとも、理念としてはそうあるべきであるはずである。私は生存主義ではない。死ぬほうが楽なら死ぬ。快楽主義である。辛い生存に堪えねばならぬ理由が分からぬ。日々死の想念と戯れて、罰当たりだと思うが致し方がない。自分には何も出来ぬしやりたくもないのだから死んだほうがましだと思う。そう思うが、死ぬ勇気が出ない。それで、堂々巡りである。下らぬと思う。詰まらぬと思う。が、他にどうしようもないのである。哲学、文学、音楽は私を癒さぬ。哲学や芸術があることは、慰めにはなっても、根本的な解決ではない。やはり私は、死にたいのだ。死にたいと願いつつ、単に生きている。不健康だと思うが致し方がない。毎日このようなことしか書けぬのを貧しいとも拙いとも思うが致し方がない。他にどうしようもない。私の世界に、他者も外部も現れてはこない。私には「自分」の世界しかないのである。馬鹿げていると思う。下らぬと思う。だが、それが自分なのである。毎日、死のうと思い、死ねない理由を指折り数え、自問自答を繰り返している。私は、他人のため、社会のためになろうとは微塵も思わぬ。誰かのためになりたいとはまるで思わぬ。私はエゴイストである。自分さえ良ければ良いのである。我儘である。強情である。そんな私は、生きるのに相応しくない。そう思う。そう思うが、死ぬ手段がない。だから生きている。致し方がない。…こんなことの繰り返しに正直倦んでいる。倦んでいるが、自分の現実は変わらないので、同じことを無限に反復する。下らない。無意味である。だがやめられない。地獄である。だが、この地獄を打ち壊すことは出来ぬ。地獄の住人として地獄に適応するしかない。