年齢問題

私は今年、36歳になります。それで、いろいろ考えるところがあります。一つは、ニートやフリーターの定義が34歳までということで、もうその定義からも外れてしまったということです。敢えて言うとすれば、「不安定中高年」でしょうか。もう一つは、チャーリー・パーカーが亡くなったのが35歳ということで、もうパーカーよりも長生きしてしまったのに、何も世に残せる仕事をしていない、という焦燥感です。私は、毎日文章を書き、演奏をしていますが、それが実を結ぶ日が来るのか、来ないのか、気を揉んでいます。

年齢ということでいえば、最近考えたことを書きます。左翼の高齢化が問題として話されることが多い。けれども、私の考えでは、「左翼の」高齢化だけが問題ではないのです。自民党民主党やもろもろの右派新党(たちあがれ日本とか)の支持者も若年層であるとは到底思えない。社民党共産党の支持者の高齢化も問題でしょうが、何かの政党を支持する人そのものが高齢化しているのではないか、左右問わず、というのが私の意見です。これは勿論、政治的無関心の問題ですし、代表制(議会制民主主義)の危機の問題でもあります。

他方、党的(党派的)でない政治については、左右問わず元気なように思います。高円寺の素人の乱を一例として挙げれば十分でしょう。或いはフリーター全般労働組合とかでしょうか。

ところで、最近毎日、奇妙な夢を見ているのですが(詳しくははてなのブログ参照)、今日も奇妙な夢を見ました。哲学と政治の夢です。

夢の中で私は2冊の本を読んでいます。1冊は忘れましたが、もう1冊は市田良彦が書いたネグリ等の解説本です。その最終章が、対話形式で、著作権フリー(コピーレフト)になっています。そこで、現代における闘争について雄弁に語られており、感銘を受ける、そうした夢です。

場面は変わり、大学になります。ノンセクトの知人が、サークル問題について書いた政治的ビラを持ってきますが、私は拒絶的です。その硬直した学生運動スタイルが、大衆的な学生の参加を妨げているのではないか、と意見を言います。また、「党」とか「市民社会」といった概念が問題になるのと同じ程度には、「サークル」という概念も問題なのだ、と言います。

また場面は変わります。奇妙な言葉だけが記憶に残っています。それは、「君を触発する俺と、俺自身を触発する俺が同一だという保証はどこにもない」というものです。どういう文脈で出てきたのかは忘れましたが、記憶に残っています。

この文章は、メーリングリストに送ると共に、はてなのブログにアップすることにします。