ジャズ耳の鍛え方

読み始めました。
ルイ・アームストロングカウント・ベイシーデューク・エリントンチャーリー・パーカージャッキー・マクリーンマイルス・デイヴィスという柱を立ててジャズとはこういう音楽だよと説いていくのは、良いやり方のように思いました。後藤さんがおっしゃる通り、マクリーンを除いては、ジャズファンなら誰も異存がないであろうような人選です。
他方、私のジャズ友に、『ジャズ耳の鍛え方』読んだかと訊ねたら、読む気がしない、以前の主張の繰り返しのように思えて、という返事が返ってきました。私は、後藤さんのこれまでの著書全てを精読しているわけではないので(図書館にないものは読んでません)、その正否を判断しかねますが、対象がジャズであれば、やむを得ないことではないか、とも思いました。つまり、モダン・ジャズを語ればパーカーを語らざるを得ないし、それ以前ということになるとデューク・エリントンを語らないわけにいかないだろうからです。つまり、ジャズは既に十分過ぎるほどの「歴史」を持っており、それを新たにジャズについて書こうとする誰も無視できないということです。
だから、私の友人が、同じものの永劫回帰に悩んでいるのだとしたら、もう、ジャズというジャンルを離れるしかない。例えば、いーぐるでも連続講演が催されるような、ヒップホップに行くとか。しかし、移っていった先でも、やはりその場の文脈なり「歴史」があるのだろう、とは思いますが。
後藤さんの、ジャンルに貴賎なし、ジャンル内に貴賎ありというのは名言だと思いますが、ジャズならジャズ、ヒップホップならヒップホップというジャンルの内部では、「共同主観的な」価値判断が成立していると考えることは、或る意味で、われわれを閉域に幽閉することになるのかもしれません。つまり、共同主観的な「われわれ」の外部に出られないということです。しかし、それは仕方がないし、甘受すべきことなのかもしれません。
とりあえず、こういうことを考えています。