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共産主義者(アソシエーショニスト)攝津正

「共(友)にあること」を考える(2010/12/10(金))

私が共産主義者だとか、アソシエーショニスト(敢えて訳せば、連合主義者、連帯主義者であろうか)だとか言うのはおかしなことであろうか。そうかもしれぬ。NAM崩壊以降、あかねやフリーター労組からの脱退以降、もう何年も、私は社会運動をしていないからである。私は活動家、アクティヴィストでは全くない。行動の人ではない。そのことは自ら認める。ではどのような意味で、共産主義者であり、アソシエーショニストだというのか。それは、「共(友)」を考えるという一点においてである。資本主義の、新自由主義的な市場の外にも価値生産の場があること、そこにおいて生じる「共」という出来事は友としか分かつことの出来ぬものであること。コミュニズム、communismを共「産」主義というのもおかしい。元々の原義には生産中心主義的な含意はないからである。むしろコミュニズムは、その原初的な形態においては、濃厚に宗教的であり、キリスト教的であった。つまり、平等と友愛を強調する共同体というかたちを取っていた。ごく一部の例外を除く共産圏の崩壊という世界史的な出来事は、以後、もう、「マルクスレーニン主義」(正確には「マルクスエンゲルスレーニンスターリン主義」とでも呼ぶべきもの)が正常に機能しないということを示した。「科学的」共産主義が疑問符付きのものになったのだとしたら、宗教的な共産主義のほうはどうだろうか。市場原理があまねく世界を、地球を覆い尽くすかのようにみえる中、「友であること」=「共にあること」を模索する思考と実践をコミュニズムとかアソシエーショニズムなどと呼ぶことにしたら。というようなことで私が連想するのは、例えば「スロー」系のエコロジストが科学的などではなく、むしろスピリチュアルであることだ。これも脱会してしまったが、例えばナマケモノ倶楽部などがそうだ。今時の若い人(こんな物言いをするのも、私が年老いた証拠だろうか)は、高い精神性なり倫理がなければ、世の中を変えようとコミットすることなどないし、それほどに理想主義的(言い換えれば観念論的)なのではないだろうか。ちなみに、理想主義と観念論というのは、欧米の言葉では同一の語である。日本語にすると、二つは随分、違ってしまうようにみえるが。「マルクスエンゲルスレーニンスターリン主義」の失墜は、「弁証法唯物論」=ディアマートの権威失墜でもあった。以降、世の哲学思想は多元的で相対主義的になっているものが多い(ジジェクなどの例外はあるが)。われわれは、「科学的」社会主義というのも疑わしいし、弁証法的「唯物論」というのも疑問なのである。むしろ精神なり倫理の契機のほうが重要なように思える。自己の内部にひきこもって篭城している私が言っても説得力ゼロかもしれぬが、その倫理とは苦しんでいる他者への共感の力であると思える。その思想はルソー以来、連綿と続いているように思う。グローバル資本の運動が、絆や繋がりを乱暴に切ったり壊したりする中、共=友を守ろうとする動機は、倫理的なものだと思う。その意味で、私の共産主義なりアソシエーショニズムとは、友を考えること、友を思考することなのである。長くなった。このくらいにしておこう。