子(個)として考える

東浩紀宮台真司の『父として考える』(NHK出版、生活人新書)を読んで欝になった。まず、この本には、NHK出版に入った大学サークルの後輩が関わっている。私は無職無収入で、全く没社会的に孤独に生きているのに、彼は立派な仕事、社会に認められる仕事をしているわけだ。その格差に愕然とする。
それと、東・宮台では、ダメな奴はとことんダメだということになるように感じ、私は自分がダメ人間だと思うので辛くなる。

引用すると、

ただ、それとは別に、宮台さんがおっしゃったみたいに、いまダメなやつをどうするか、という問題はむろん深刻ですね。しかし、そちらに関しては、宮台さんのお話がそこに向かっているような気がするので先取りしてお尋ねするのですが、結局ダメなものはダメだとしか言いようがないのではないですか。(p147、東の発言)

で、以降、宮台の発言として、「勉強田吾作」の批判がなされるわけだが、私など、典型的な「勉強田吾作」である。さらにページを繰っていくと、高学歴ダメ人間には、単純労働すらできない、知的労働はもっとできない、どうしようもない、という話になってくる。
そうなのか? そうだなあ。と思うと共に、全く希望がない。死ぬしかないとしか思えない、という結論になる。
世の中、真実というのは結構残酷だったりするものである。まあ、私が死ぬしかないのも、やむを得ないというか、必然、運命のように思う。