いーぐる掲示板投稿記事(戦争とメディア)

戦争とそのメディア報道も研究してみる価値がありそうです。ホットとクールというマクルーハンの概念がどのくらい役立つかは分かりませんが。
9.11は私もTVで見たのですが、非現実的というか、リアリティがないというか、なのにも関わらずあそこでは確実に数千人が死んでいる…という事実にショックを受け、不安神経症を発症し、精神病院に通うようになり今に至っています。病名は社会不安障害から回避性パーソナリティ障害(不安パーソナリティ障害)に変わりましたが…。投薬もカウンセリングも受けましたがさして効果はないようです。やはりジャズを聴いている時間、ピアノを弾いている時間が充実していますね。
ところでいーぐるのトップページから後藤さんの昔のthinkを読んでいろいろと考えたのですが、ジャズの演奏家も聴衆も身体感覚が変容している可能性があること、そこに「認識の切断面」があるのではないかということが述べられていました。時代的には、ウィントン・マルサリスが登場してきた80年代、90年代辺りから「何か」が変わってきたということでしょうか? それこそ12月に出るご著書のテーマなのでしょうし、一言では言えないもの、語り得ないものでしょうが…。
今、1円も消費しないという無買生活を続けているので、CDも本も買えず消費には全く貢献できないのですが。しかし、ジャズの流れを探求したいという気持ちはありますね。ただ、ジョン・ゾーンとか、出るの全部買っていたら破産してしまう(笑)。
感覚的に現在の演奏家とかつてのジャズ・ジャイアンツの違いを私なりに語れば、かつてはジャズ「ジャイアンツ」と言ったように、巨人というか、自分らとは異質な存在という感じでしたが、現在の演奏家達は良くも悪くも聴き手と同じ身の丈をしていると感じます。一例を挙げると、フィニアス・ニューボーン・Jr.松本茜チャーリー・パーカー矢野沙織などです。上原ひろみやManami Moritaもそこに含めてもいいかもしれません。
上原ひろみの『ビヨンド・スタンダード』やManami Moritaの『Colors』を聴いて思うのは、自分などは古い感覚のファンですから、「マイ・フェイヴァリット・シングス」を取り上げているとジョン・コルトレーンを当然意識しているのかな、と思いきや、全くそうではないようなのです。コルトレーンなど眼中にない、というか、いなかったかのように「マイ・フェイヴァリット・シングス」を弾いている。良くも悪くもジャズの「伝統」と切れている、と思いました。この伝統と切れているという印象は、他の女性ピアニスト、宮野寛子兵頭佐和子妹尾美里らにも感じます。ジャズミュージシャンが等身大になったというか、かつてのような「ジャイアンツ」とは明瞭に違ってきているなと、まあ勝手な印象論なんですが。