山之内靖『マックス・ヴェーバー入門』(岩波新書)

山之内靖のヴェーバー読解の特異なところは、ヴェーバーニーチェに引き付け、キリスト教プロテスタント的倫理の擁護者としてではなく、キリスト教倫理への、さらにいえば近代総体への批判者として描き出そうとしているところだ。つまり近代化の思想家から近代批判の思想家へと読み替えたということである。それは時代がそうさせたのでもある。丸山真男大塚久雄、内田義彦らの世代は、戦前の大日本帝国の「非合理性」が戦争を齎したと考え、合理化=世界の脱魔術化(脱呪術化)に議論の力点を置かねばならなかった。だが、20世紀末から21世紀に掛けては、合理主義を旨とする近代主義の抱える根本的なニヒリズムなり限界が露わになった。その一端が、ロシア革命を経て成立したソ連の崩壊と言えるであろうと思う。ソ連崩壊以降、「マルクスレーニン主義」は通用しなくなった。マルクスを読むにしても、レーニンと繋げるのではなく、マルクス独自の思考を抉り出さねば読むに値しない、そういう時代になったのである。ソ連崩壊は、それほど大きな思想史的=歴史的出来事であったと言える。
合理主義なり近代主義に限界があるからと、ベイトソンなどを援用して世界の「再魔術化」を図るなどは、馬鹿げた試みだと思う。ベイトソンに即してもそれは愚かな読み方だ。
合理主義、近代主義に限界があることを自覚しつつ、安易な解決に逃避しないこと、それこそ求められる態度ではあるまいか。ヴェーバーは、少なくとも山之内ヴェーバーは、未来の革命を説くマルクス主義を、キリスト教の変形として捉えて批判しているのであり、その批判はニーチェにも通じるものがある。
ヴェーバーの「カリスマ」概念は確かに不気味である。カリスマが、破壊の後に何を齎すのか、我々は予想出来ないし、真のカリスマと偽のカリスマを識別することも出来ないからである。しかし、それは、退けたはずのキリスト教的思想が再び回帰してきていると言うべきではあるまいか? キリスト教においても、真のメシアと偽のメシアがあり、両者は識別し難いものとしてあるとされている。日本においては、オウム真理教麻原彰晃のことを考えるべきだろう。最晩年のヴェーバーは、カリスマの力の拠って来たる由縁を、生物学的身体に求めたというが、特権的なカリスマならずとも、何らかの抵抗なり反逆のエネルギーの源泉は「身体」なのではないだろうか。生物学的な何かをそこに読むかは別にして。身体の力への着目、これも注目に値する。
ともあれ、面白い本である。

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)

マックス・ヴェーバー入門 (岩波新書)