普遍論争

以下はid:eaglegotoさんの日記へのコメントです。
まず私は、中世哲学は専門ではなく、専門的に学んだことはないので、以下は基本的で粗略な哲学史的解説だと思ってください。
普遍論争というのは、中世ヨーロッパで行われた「普遍」概念の実在性を巡る論争で、リアリズムとノミナリズムがその対立する二者です。
リアリズムといっても、通常我々が想像するような「現実主義」などと考えてはいけません。これは、普遍概念が「実在」すると説く立場であり、実在論とか実念論などと翻訳されています。ノミナリズムというのは、唯名論と言い、実在するのは個物のみ、普遍概念は「声の風」に過ぎないという立場です。
netjazzさんは、普遍論争の結末が普遍妥当性の確立であったと考えているようですが、私などが心得ている哲学の初歩的知識の範囲内では、むしろ逆です。トマス・アクィナス→ドゥンス・スコトゥスウィリアム・オッカムと時代を下るにつれて、唯名論的傾向が強まり、それが近代哲学の経験論に繋がります。
それと、どの著作でだったかは失念したのですが、確かフーコーアリストテレスの言葉を引用しています(『臨床医学の誕生』だったかな?)。アリストテレスの禁令というのは、「個別的なものについての学はない」というものです。アリストテレスにとっては、学問というものは、一般的なものについてだけ成り立つものであった、というのです。このアリストテレスの禁令が解除され、個物の認識こそ基礎的であると看做されるようになったのは、近世・近代になってから、一般には近代科学が成立してからです。
というわけですから、後藤さんがご自分のことを唯名論者と語るのは、普遍論争の歴史に照らしても正統に「近代的」な立場です。但し、例えばトマス・アクィナス研究者などからは、唯名論への傾斜を堕落と捉え、普遍概念の復権を目指す動きもあります。稲垣良典などです。
netjazzさんがおっしゃるように、西洋哲学を系統だてて学ぼうとしたら、或る程度の哲学史の知識は必要です。ただ、フーコーメルロ=ポンティは我々の同時代人ですから、プラトンやカントなどより、或る意味分かり易いという側面があるのは否めないでしょう。イデアの実在を直観しろとか、先天的綜合判断が存在するなどと言われても、眼を白黒させるのが大多数の現代人ではないでしょうか。
ビバップについていえば、音楽理論的にコツコツとパーカーやパウエルを解析し続けている研究者の方もいらっしゃるんですよね。そういう方がいる、という話だけは聞いたことがあります。全く頭が下がります。そのような努力は立派だと思います。netjazzさんがおっしゃるように、言語学モデルや構造主義的枠組み(シニフィアンシニフィエ)でビバップを解析するのは無理のように思います。菊地成孔によると、多くの人がそれに挑んだが挫折したそうです。
ウィキペディアも貼っておきますね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%8D%E8%AB%96%E4%BA%89