880番への応答

> 黒田寛一の人生をよく知りません。

クロカンの場合は、生まれたときから虚弱体質で目が悪く相当いじめられてるんだな。東京の府中の出身だが、子供の頃からずっといじめられてきた文弱の青年でそれで生々しい人間たちの交わる世界からずっと自分は疎外されてきたという意識が、彼の弁じる疎外と革命と主体性の根拠になっている。
まぁいわゆる、ルサンチマン型の疎外論型怨念の典型であり、その決定版というところだな。
情念めいたくどい主体性という意識も、その怨念がベースになっているから、ニーチェ的にいえばあんなのは完璧にアウトだ、疚しい主体性の典型例だといえる。

ところで、このクロカンの生い立ちと攝津の境遇というのは、やっぱり相当似たところがあるといえよう。
中途半端な共産主義思想との出会い方も、クロカンに同じかもしれない。

疎外論ベースの復讐的な社会革命の情念が結実されると、いわばあのカクマル派のような不気味な革命組織が成立するといえよう。
この辺の事情も、攝津の場合はクロカンとそっくりだ。
あんたこそはクロカンの生まれ変わりかもしれないし、まさに現在を生きるクロカン的なものといえよう。

昔カクマル、今攝津。

これは、決して、予言ではない。

私は革マル派のような集団を形成したいとは思わないし、そもそも無理でしょう。そこが差異ですね。