879番への応答

いやせっつよ、久しぶりにマジレスするけど、この人の言ってる

> 「人生は無意味にして苦痛なり」と言うけど、それほど一生懸命生きてきたのですか。
> 人との関係の希薄な抽象的な虚しい生を生きているだけではないですか。

「人との関係の希薄な抽象的な虚しい生」という問題設定それ自体が、もう虚構なんだよ。

そこのポイントに気がつくべきだ。
せっつ自身の具体性の充実、即ち今の言葉でいえば「リア充」というやつだが、それは決して倉庫労働や普通の賃労働、肉体労働でもたらされることは、やっぱまずないんだよね。

せっつにとって、リア充とは、ひきこもりながらの、インターネットを介した他者との抽象的関係性においてもたらされる。そういう構造にある。これは何も特殊なことではない。
人によってはそういう形のほうが、より深く他者と交われるというタイプの人は、決して少なくはないんだからさ。

だったらせっつは、そういう自分の特殊性をよく自覚するべきだ。
自覚して、単独性として、どういう工夫を為すことが、最も自分にとって肯定的な生に繋がるのかを自分で発見すべしだ。

ネットで、メルマガを撒き、ツイッターで滅多矢鱈に他者に話しかけるせっつの情念においてこれほど具体的に他者と衝突しうる体験とは、珍しい、他の人には真似のできないわざだ。
それを抽象性とは一個の虚構であり、逆に具体的と思い込まれてるもののほうが、はるかにリアルには乏しい虚構なのだ。実際のリアルとは、外や労働現場や他人とのナマの接触の中にはない。リアルとは、抽象性に向けて学習し、分析を働かせる脳の中でこそ体験される、認識と記憶の統合される充実感にこそ根をもつからだ。

そういう意味では、黒田寛一だって、あの埴谷雄高だって、賃労働なんかやったことねえ。
肉体労働なんてあんな貧弱な疎外された肉体には最初から無理だ。
だからこそ彼らはひきこもりの歴史的先駆けであって、徹底的に抽象的に体験される世界の像から他の共産主義者連中には一目置かれる、主体性というのを編み出したんだ。
真の具体性というのは、抽象的なものの具体性を発見することであり、それが要するに普遍性だ。

これはその通りだと思う。