ネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノへの疑義

ドゥルーズは「コミュニケーション」概念自体を反動的なものと看做していたのに、彼らの議論では、労働の変容が深くコミュニケーション的、パフォーマンス的だとされる点。昨日のエントリーで述べたように、私は労働が「知的」に変容したという議論に深く疑問を持つ。むしろ、産業形態の変化・転換もあり、知識人(知識労働者)は食えなくなっているのではないか。倉数茂さん(id:kurageruid:kurageruruid:shiku)も杉田俊介さん(id:sugitasyunsuke)も鈴木健太郎さん(id:KS_1906)も苦労している。青木純一さんは中国の大学で働いている。中澤忠之さん(id:sz9)も広告業界で働きながら文学やっている。私にしても芸音音楽アカデミーで近所のお婆さんらに演歌・歌謡曲を教えながら、金にならない領域でジャズ等をやっているわけだ。みんな厳しいサヴァイヴァルを強いられている。だが、近現代を通じても、それがむしろ普通、常態であったとも言える。かつてのバブル期の日本のような状況が異常だったのだ。企業が文化メセナに金を出したりしていた。だが、不況になれば、企業は文化活動をやめる。
出版業界、音楽業界も構造的な不況にある。電子出版やiTune等が突破口になるのかどうかは分からない。個人的にはYoutubeニコニコ動画Ustreamのような無料=自由なコンテンツに魅力を感じている。

マルチチュードの文法―現代的な生活形式を分析するために

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