プロ・アマ論争、或いは芸術性と商業性

神沢敦子さんの日記を、単に商業性と芸術性の相克といった問題と捉えてしまうのは矮小化だとは思うが、そういう側面もあると思う。
それで思うのは、そもそも職業としての芸術家というのが近代以降の概念だということだ。音楽でいえば、ベートーヴェン辺りから、貴族から経済的、精神的に自立した音楽芸術家のイメージが出てきて、それがロマン派に継承される。日本近代文学でいえば、北村透谷は食えなくて自殺している。小説なり文学で食えるようになるのは、朝日新聞に連載した夏目漱石辺りからではないか?(これは調査、吟味が必要な箇所。)
ポストモダン状況というのは、そのような特権的な芸術家概念が問い直される時期ということだろう。職業としての、言い換えればプロとしての芸術家などという存在が問い直されるということだろう。
ネグリ=ハートやパオロ・ヴィルノは、コミュニケーションやパフォーマンス等が労働になったと述べているが、労働が芸術的になったり、芸術やパフォーマンス等が食えるようになったりは全然していない。それが先程のエントリーで書いたことである。むしろ単純労働が増加している。