カントの判断力批判

私の認識では、判断力批判は、複数の主観の判断における一致(または不一致)の問題に取り組んでいると思います。それを強引に、現象学の共同主観性と結びつけるつもりは毛頭ないですが、多数、複数の主観があり、それのおのおのの判断が一致したりズレたりする、ということが大事だと思います。
パーカーは偉大であり、彼の音楽にはそれ自体として価値がある。それには異論ありません。彼の音楽が音楽以外の目的を持っていないというのもそうでしょう。今議論になっているのは、パーカーならパーカーをどう捉えるか、ということではないでしょうか。
私が共同体という言い方をしたことで誤解を招いたかもしれませんが、多数決の問題ではないのも分かっています。私は民族と言う代わりに共同体と言い直したのです。というのは、私には、民族という言葉が定義するところのものが音楽享受の決定的な要因であるという確信が持てなかったからです。

でも、純粋に美を追求する芸術は他に目的を持たず、それ故、地域、時代などの制約を受けないのです。

これは「創り手」側からすればそうかもしれませんが、受け手側、聴衆の側からすれば違うのではないでしょうか。私達がパーカーを聴く時、ビバップの同時代人と同じ意識で聴いているとは思えません。当然、地域や時代の違いに応じた相違があるものと思います。「チャーリー・パーカービバップ」は理念的対象としては同一的だとしても、それの享受仕方は多様だということです。
ところで注釈的に言い添えておきますと、理念的対象とは『経験と判断』その他におけるフッサールの用語で、フッサール憲法という例を挙げています。日本国憲法を考えてみれば分かる通り、私達はそれの理念を繰り返すことができるでしょうが、「日本国憲法」自体が特定の日付と文脈を持っていますし、それの反復も同様ですよね。

経験と判断

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