西洋かぶれ

そう、私は軽佻浮薄な西洋かぶれなのである。
ヨーロッパ哲学を読み、ヨーロッパ哲学を読んだ日本人が書いたものを読み、アメリカ黒人がやっているジャズを好んで聴く。が、自分自身はヨーロッパ人にもアメリカ黒人にもなれぬことはよく分かっている。
セロニアス・モンクが自分の音楽を理解するにはニューヨークを理解せねばならぬと述べたことはよく知られている。しかるに、私はモンクはほとんど全ての録音を聴くほど愛しているが、ニューヨークには行ったこともなければまるで知りもしない。自分に未知の環境の産物たる、モンクス・ミュージックを、自分がどれほど理解しているかは疑問である。
というようなことを、江藤淳夏目漱石』を読んで考えた。
日本という場=環境で生き考えることも、世界に通用する仕事をすることも、共に難しい。私は、田崎英明(『無能な者たちの共同体』傑作!)のような人を尊敬しつつ、小林秀雄から江藤淳吉本隆明を通じて柄谷行人に至る近代日本の文芸批評にも関心を持つ。
第一義的には私は、哲学愛好者である。文学についてはよく知らないし、自分に「書く」ことの実践がよくできるとは思わない。私は、自分が書くものは哲学でも文学でもないブログ記事であり、芸術的価値はないと思っている。
だが、価値があるものに関心を持たざるを得ないのも事実である。
江藤淳を読みながら、彼の問題意識、問題構成(プロブレマティーク)そのものが、現在、決定的に「失われた」と思う。ヨーロッパかぶれ、アメリカかぶれに悩む人は少ないだろう。普遍的「人権」を疑う人も少ないだろう。その状況を文化的植民地と卑下する人も多くないだろう。
「現在」の主要な問題は「単なる」生、労働、そして生存である。死という問いはそれを裏打ちするものだが。しかし、生、労働という問いそのものが「西洋かぶれ」だとしたら。例えば「プレカリアート」という言葉はユーロメーデーで、イタリアでの落書きを起源としている。「ニート」はイギリス発である。純粋な日本産の概念といえば、「ひきこもり」くらいではないか。しかし、何はともあれ、その呼称の起源がどうあれ、私達が一定の様態で生を生きていることは確かであり、グローバル化した世界の中で、他の文化圏の模倣だとしても、一定の様態で存在している事実は動かしようがない。
ぐだぐだ書いたが、ここで一旦送る。