カウンセリング〜メタ

私は幼い頃、拙いSFや暴力小説の習作をしていたが、ものを書き始めたのは14歳の精神病的な発作を起こした時で、それは自己批評的なものだった。その時知ったのは、自分を客観視し認識しようとする自意識が、どこまでも自分を取り逃がしてしまうということだった。自分は自分に対してメタレベルに立てない。立てると思ったならばそれは欺瞞である。青春の頃の虚しい試みが私にそのような認識を残した。
しかし今もう一度メタ的な試みをやってみようと思うのである。そう思ったのは、昨夜の2ちゃんねらーとのやりとりが、私に消耗を残したからで、自己の客観的な認知が必要だと思えた。
私に最もしっくりくるのは無方法の方法だ。つまり、意識に浮かぶ全てを記述するというありようだ。
昨夜私に現前していて今していないもの、それは死の意識、死の自覚、死の覚悟である。
私の生の無条件肯定の思想は、些細なことで、死の讃歌に逆転してしまう。死の想念への逃避に溺れる時が自分の思想が最も弱い時だと思う。だがそこから逃れる時、思想家誕生といっていい瞬間が訪れるように思う。
私は惰民論が一部にウケたのに気をよくしたが、それの基本は、だらだら生き、だらだら死のうというものだった。その基本的な考えは変わっていない。賃労働、肉体労働の経験を経て、さらに労働厭悪の念が強まった。二度と倉庫には戻りたくない。そういう意志、というより欲望がある。芸音音楽アカデミーを出たくない。
生存の苦痛を前にすると、死の安楽への逃避的感情が高まる。生存が無意味にして苦痛であるならば、それを拒絶しようという発想である。私は中学、高校の頃から既にそうした考えを抱いていた。けれど死を本当には知らないのに、それに執着するというのは、少しばかり幼稚な思想であるようにも思う。私が、敗者のゾンビ的サヴァイヴァルと呼んだものを探求している時のほうが、少しばかりはましな思想者であるように思う。資本主義を今すぐ全面的に転覆することはできぬ。そのような「革命」は、私の力量には余る。私にできるのは、今ここで、非資本主義的な様態の活動を行うことだ。つまり、無償贈与の領域で、生産、交換などを行うことだ。ブログを書き、動画をアップする。ものを書き、楽器を演奏する。私にできることは、他にない。
死の想念に囚われる私は、凡庸な生存厭悪者に過ぎない。その原型は、中世の浄土思想の或るものに見て取ることができる。早く浄土に行きたい、早くこの生存を終わらせたい、そういう衝迫に駆られた念仏者、実践家の一群に似ている。しかしそれは、当然の如く、現世逃避的、現世放棄的である。死に囚われる時、私は生を、現世を放棄したいという衝迫に駆られる。もうやるべきことはやり尽くした、後は死ぬだけだという思いである。ぎりぎりの状況で考えるべきことは考え尽くし、演奏も精一杯やった。もういいではないか、というわけである。今もそのように思わぬわけではない。自分は自分の生きた記録をもう十分に残したので、逝ってもいい。そのようにも思える。何故この世に執着するのか、と自問してみる。悟り切った坊主のように、欺瞞的な超出ができぬからだ。とりあえずそう思える。私は、例えば家族との実体的な関係性のうちにあり、家族をケアし、彼らを幸せにしなければならぬ責務を負っている。私が生きている限り、そして彼らが生きている限り、私は彼らが最大限幸福に生きられるように努めねばならぬ。それが私を生に繋ぎとめている唯一の倫理のように思う。自殺は良くない、という道徳的なお説教はもう聞き飽きた。私を生に繋ぐのは、家族への愛、それのみである。私は高齢の両親を愛している。彼らの不幸を望まぬ。だから、少なくとも彼らが生きている間、生きねばならぬ。そう思う。それも下らぬ世俗的な倫理かもしれぬ。しかし、それでいいのである。親が生きている間、生きる。親より先に死ぬのは親不孝である。そういう伝統的?な観念がある。
ここで一旦送る。