マウリツィオ・ラッツァラートへの異論

われわれの仮説によれば、1968年以後のさまざまな政治運動は、もはや社会主義共産主義の伝統とは根本的に縁を切っている。(p256)

いや、そんなことはない…。つーか、社会主義共産主義の「概念」を鋳直す必要があるんじゃねーの。

つまり、その実践は、多様な生成変化、怪物的な生成変化、分子状の「千の性」の実現、人間精神に潜んでいる無限の怪物性を現働化するプロセスなのである。レズビアントランスジェンダー、トランスセックス、有色人種の女性、ゲイ……。(p261)

言いたいことは分かるが、そんなに楽天的でいいのか?

この拒絶、すなわちアンテルミッタンたちの「否(ノン)」(たとえば「もう演奏しない」)は、彼らがこれまでコントロール社会の組織との間に保っていた関係をぐらつかせることになった。彼らは、曖昧な関係(冷笑的であったり参加的であったり、あるいは我慢したり反抗したりする関係ではあっても、つねに個人主義的な関係)から、われわれが出来事の理論にもとづいて「問題提起的(プロブレマティーク)」と呼んでいる関係に移行したのである。(p276)

前も書いたが、「否(ノン)」「もう演奏しない」が言えない状況にいる俺らどーなんの?