『吉本隆明の時代』を考える

もう返却して手元にないが、すが秀実さんの『吉本隆明の時代』について考えてみたい。
すがさんの本は、吉本隆明の言説を、政治、それも左翼革命的政治との関わりという視点から精密に読んだものと言える。それはそれとして価値があると思うが、今日吉本が忘れ去られ、武井昭夫大西巨人が神の如く崇拝されているとすれば、それは時代の再左翼化を意味していると思う。すがさんの『革あ革』から『JUNKの逆襲』、1968年再評価など一連の著作もその流れにある。
すがさんは左翼であり、革命的、コミュニストなのである。東京新聞に載った、ジジェクの『ポスト・モダンの共産主義』への書評もそのような立場からなされている。

吉本が、花田清輝武井昭夫らとの関係で見れば、全学連的(60年安保)であり、他方、68年革命=全共闘的なものとは余り関係がなかった、というのもその通りだと思う。この点は、寺山修司と逆なのである。寺山は60年安保の時は、デモに行こうとする劇団員を止めたが、68年全共闘らの革命には積極的に参加している。
話は飛ぶが、『柄谷行人政治を語る』で彼が盛んに、日本にはデモがない、云々と言うがデモはあるではないか?と思ったが、こちらの誤解だと分かった。彼がイメージしているのは60年安保のような大衆闘争なのだ。それが安保闘争以後、不可能になった、ということを言っているのである。
すがさんの本に戻ると、吉本らは安保闘争を社会を革命的にしようとする最後の機会だと考えていたというが、この点では吉本のほうが正しかったのではないか。現在も、様々な形で(コミュニスト的であれアナーキスト的であれ)左翼運動は存在しているが、膨大な大衆を巻き込むかたちでは存在していない。それは少数者の運動になっている。『蟹工船』がブームになったとしても、柄谷行人は「『蟹工船』では文学は再生しない」と述べたが、同時に左翼運動も再生しない。
吉本の辿った軌跡をコミュニタリアン(大衆の原像)からリバタリアン(超資本主義的)へという流れで捉えるのは正当だと思う。私が最初に接したのも、リバタリアン的=ニューアカ的=ポスト・モダン的吉本隆明だった。私はそこに自由への誘い、解放の言葉を読み取ったのである。
その「感覚」は今でも変わらない。高度資本主義化がもたらす消費社会の肯定的側面ということだが、それは確かにあると思う。ただ、幾つかの変容を考えるべきだとも思う。
その一つの変容は、テレビからインターネットへのメディアの移行だ。吉本隆明は、テレビでのビートたけしの話芸などに「現在」という作者の自己表出を見たわけだが、現在は、表現や情報取得の領域はテレビからインターネットに移行している。テレビしか見ない者が保守化するのも当然で、テレビは資本によって操作されているからだ。他方インターネットは、条件付きで、革命なり解放なりのメディアたり得ると思う。それは個々人は自由に情報発信できる点である。
すが秀実は『吉本隆明の時代』で、共産党のサークル運動を批判し、後世に残るような文学表現は皆無だったと述べているが、インターネットによってもたらされた新たな「素人の時代」も、サークル運動と同様の帰結に陥る危険性もある。端的にいえば、私のブログやYoutube等である。それらは後世という観点からすれば、端的に無価値な自己満足かもしれない(ということを論じるこの文章を含めて)。

すがさんから離れると、現在の左翼、戦争機械ならぬ運動機械を自称するRyotaさんのような左翼活動家は、吉本的な言説を無視するだろう。吉本のヘゲモニーはもうなくなっている。私のような古い世代の一部に、吉本のヘゲモニーは残存しているに過ぎない。現在のノンセクト・ラディカル的な左翼運動は、吉本的な消費社会肯定のリバタリアン的主張を、倫理の欠如として批判するだろう。大衆の原像=マス・イメージに埋没することによって、例えば沖縄、例えばパレスチナ等の他者への倫理的緊張関係を喪失した言説だと批判するだろう。
活動家が吉本主義者に浴びせた罵声、「自立豚」が現在でも通用する。私は2ちゃんねるでは「豚」と呼ばれているのである。そして自分でも豚は悪くない、と思っている。古来から、エピクロスの豚、というではないか。

長くなったが、一旦ここで送る。

吉本隆明の時代

吉本隆明の時代