無能力批評

限界状況にある当事者からは、「働けるのに、働かない」「できるのに、しない」とは言えません。正確には、できる/できないの境目がわからないのです。このわからなさの中をぐるぐると消耗し続け、やがてぐったりし、諦め果てる。それがエレメンタリーな貧困経験ではないか。自分が悪い、でも、社会が悪い、でもない。すっぱりとわりきれない(川崎昌平[2007])。できるはずなのにできない。どうにかしなきゃいけない。どうにもならない。体が動かない。生活習慣を変えられない──貧困を強いる《構造》とは、目に見える敵やガラス張りの天井というより、身体や生活の不調・できなさを通してかろうじて感受されるものかもしれません。「たとえば自殺とか精神障害に限らず、なんとなく身体に変調を来す、アトピーが悪化したり、喘息とか、微妙な腰痛とか、プチうつとか、わりとそういう身体の微妙な変調に注目するのが大事だと思っていて……」(雨宮[2007]での、杉田の発言)(杉田俊介『無能力批評 労働と生存のエチカ』大月書店)

ぼくの直覚では、赤木さんの本領はウェブ日記に、フリーター当事者学/戦争待望論/社会時評ではなく「文学」にある──たとえどんなにそれが稚拙であっても、いえそれだからこそ。(同書)

私が彼の本を読んで、なるほどなと思ったのは上記2箇所である。他にもあるが、特に、ということだ。
働かない/働けない、が割り切れない経験であること、自己責任と社会の責任もどちらか一方を選べるものではないことをそれは告げている。私自身のひきこもり・ニートとしての実感もそれに近い。「身体の微妙な変調」が何かを告げる記号なのかどうかは分からないが。しかし、私の抑鬱・不安の多くは、働かない/働けないという事実からきている。それは身体的不調としても現れる(心身症)。

私は、あかねで赤木智弘に会った時「希望は、戦争。」を面と向かって批判したし、自分でそれは間違っていないと思うが、杉田の言うような「文学」としての赤木の重さというのも確かにある。そして、私自身、ブロガーであることに第一のアイデンティティを見出しているのだから、赤木的でもある。
ちなみに、私は社民党的左翼として、いわば綺麗事の立場から赤木を否定したのだが、それは特に間違っていないと思う。私が言ったのは、戦争は一国内で完結する事象ではなく、必ず他国との関係においてある、その戦争において生じる加害はどうなるのか、と赤木に問うたのである。答えはなかった。
私の主張は正論である。自分で言うのもおかしいが。しかし、世の中正論だけで割り切れないものがある。それが赤木的怨恨の奇妙な《正しさ》だ。

杉田俊介は(雨宮処凛もそうだが)赤木智弘や加藤智大のような言論において/行為においてテロ的行為に及ぶ者に寛容だが(少なくとも彼らに「手紙」を書くという真摯なコミュニケーションを取ろうという意図はある)、私はここで彼・彼女らに賛成しない。
赤木智弘や加藤智大(やそれに続く金川真大など)を考える時、オウム真理教の松本サリン事件・地下鉄サリン事件や、(真相はいまだ不明とはいえ)アルカイダが起こしたとされている9.11自爆攻撃のことを想起すべきなのである。それらは単に「犯罪」である。しかし、単に「犯罪」とだけ言って済まされない何か過剰なものを持っている。
私のスタンスは、その過剰さを考え抜きつつ、しかし犯罪は犯罪として冷静に受け止めるということである。それらの思考や行為を讃美したりはしない。
湾岸戦争の時、戦争に反対する署名活動をした柄谷行人フセインについて、フセインは狂気に見えるが今後ああいうかたちでしかアメリカへの反逆はできない、今後の反逆は「造反無理」のようなものになるだろう、と述べた。対テロ戦争において名指しされる「悪の枢軸」や「テロリスト」は、「造反無理」を生きる者らである。この場合、アメリカの戦争に反対するとしても、フセインを支持するわけにもいくまい。第二次イラク戦争の時、すが秀実イラクの正統な権力者であるサダム・フセインを大統領に戻せ、と主張した。しかしそのような主張は、サダム・フセインが独裁者として行ってきたもろもろの虐殺を考える時、アイロニーにしかならない。それが困難であろうとも、ブッシュにもフセインにもノーという社民党的な左翼の大義を主張するしかないのである。少なくとも私はそう思う。
脱線したが、ここで一旦送りたい。

無能力批評―労働と生存のエチカ

無能力批評―労働と生存のエチカ