I'm Old Fashioned.

I'm Old Fashioned. という歌があったと思ったが、実際時代遅れである。
吉本隆明など久しぶりに読むと、凄く懐かしいな、というか、落ち着ける印象がある。現代最新の理論のものは、落ち着いて読めないというか、理解できない場合が多い。それだけ頭脳がずぼらにできているのだろうし、感性も古いのだろう。
デヴィッド・グレーバーとか、ネグリ=ハートとか、最前線ではあるのだろうが、読んでいてしんどい。

思いつき的にいえば、柄谷行人の『世界史の構造』は、ネグリ=ハートらの議論の批判として「世界共和国へ」路線を打ち出していると思うのだが、『帝国』を読み始めると逆に、柄谷さんのほうが、ネグリ=ハートに逆に批判されているようにも感じる。というのは、『帝国』は国連から論じ始められるのだが、国連を肯定、賛美するためでなく、議論は両義的である。もし柄谷さんの本をネグリらが読んだとしたら、国連への幻想?を批判するのではないかと思う。
デヴィッド・グレーバーが柄谷行人を読んだとしても(グレーバーも『世界史の構造』で言及されているのだが)、それを「高踏理論」(ハイセオリー)の典型だと断じるのではないだろうか。柄谷行人には、明らかに「理論中心主義」がある。良かれ悪しかれ

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)

世界史の構造 (岩波現代文庫 文芸 323)