読書メモ

ルイ・アルチュセール自己批判 マルクス主義階級闘争』、ルイ・アルチュセール精神分析講義 精神分析と人文諸科学について』、『KAWADE道の手帖 マルクス資本論』入門 危機の資本主義を超えるために』を船橋市立北図書館から借りてきて、読む。アルチュセールには感心しない。NAMの杉原正浩さんが、自分にとってはアルチュセールを維持すべきかどうかが問題だ、と語っていたのを思い出すが、当時も今も、何故アルチュセールを「維持」しなければならないのか自分には分からないし、興味もない。田上孝一さんも言うようにアルチュセールは悪い意味で教条主義的(ということはつまり、レーニン主義的、マルクスレーニン主義的)だと思うのである。
自分は基本的にはマルクスには興味がないのかもしれない、と思う。読んでいて退屈だし、辛い。それにしても昨日もルソーを読もうとして退屈だったし、自分は哲学者と名乗っていても本当は哲学には向いていないのではないか、と愚考する。
私は本当に、ドゥルーズ=ガタリ柄谷行人の言説が好きなのである。通俗的とかジャーナリズム的と嗤う人は嗤えばいいだろう。私は高校生の頃からずっと、彼らを読んできた。彼らの言説は私の一部ですらある。

ところでフランスのエピステモロジー=科学認識論(ガストン・バシュラールが創始した)には捩れた歴史がある。
ルイ・アルチュセールは「認識論的切断」という概念で、『ドイツ・イデオロギー』以降のマルクスの科学性を主張したのだが、アルチュセールの教え子であるミシェル・フーコーは主著『言葉と物』でマルクスの言説はリカードのそれに還元されると述べている。アルチュセールが、ブルジョアイデオロギーにとってマルクスリカードである、と述べるとき、フーコーの言説を念頭に置いていたのではないか。推測に過ぎないが。
勿論マルクスリカードではない。マルクスは、リカードとベイリーの「間」で考えた人である。(廣松渉資本論の哲学』、柄谷行人トランスクリティーク』)そこにマルクスの批評性も面白さもある、とは思うのだが、積極的に『資本論』を読もうという気持ちにはなかなかなれない。