コメント

マイミクの日記に次のようにコメントした。

主体や「私」の問題にしてしまうと、充実した主体なり自己、内面があればいいという話になっていくように思える。
しかし私は、ニヒリズムシニシズムは或る意味、不可避だと思っている。ドゥルーズが『シネマ』で考えたことは、高度資本主義社会(現代社会)においては「この世界を信じること」が回復されねばならないということだった。その意味で彼は、左翼(マルクス主義)の映画を、カトリックの映画に並べる。「信(信仰、信念)」の問題として立てる。
いまやコミュニズムは「科学的(学問的)」ではない。少なくとも、科学的(学問的)であるだけではない。言い換えれば知識、認識の問題であるだけではない。信の問題が前景に出ている。しかし、共産主義社会主義は(マルクスエンゲルス以前は)もともと宗教的だったのだし、マルクスエンゲルス以降においても事実上そうだったのだ。

主体性(主観性)の生産から考えると、一定の社会条件が一定の人間類型を生み出すと分かる。たとえばアンテルプレケール(不安定インテリ)の問題はヨーロッパや日本だけの問題ではない。例えば中国では、大学を出て知識労働に従事するぞと意気込んでいたのに、低賃金長時間労働の単純作業の仕事しかなく、絶望感から自殺する若者が相次いでいる。中国版「大学は出たけれど」だ。

日本に蔓延するニヒリズムシニシズムの問題もそう。排外的ナショナリズムの問題もそう。
私自身、ニヒリズムシニシズムに「汚染」されている。社会を変革することなどできない、という気持ちになっている。つまり、それらの問題は他人事ではない。自分の問題として引き受けている。安易な解決はないと思うが、引き続き考えていきたい。

以上がコメントだが、付け足せば、私自身資本主義的ニヒリストなのであり、そのような自分自身を「問題化」して考えていきたいということだ。