思索続き

マルクス自然主義人間主義を、哲学的「残滓」として、言い換えれば乗り越えられた若年の未熟な思想として切ってしまうことはできない。言い換えれば神の論理であったヘーゲル論理学を、人間世界に引き戻したフォイエルバッハ以来の転倒はマルクスの中で生きていると考えるべきである。
以前冗談で、19世紀研究会というのを語ったが、マルクスもまた、19世紀末の哲学者らと同じ課題を共有していたと思える。プラグマティスト、ホワイトヘッドニーチェらがそれだ。つまり、先験的(超越論的)な論理を経験化、人間化するということ。
後期のマルクスはそれを、資本主義(商品社会)の論理として追求した。(『資本論』)そこでは個々の人間は捨象されている。しかし、人間がいなくなったわけではないし、論理だけが一人歩きしているわけでもない。現実には、資本家として、或いは労働者として等、個別・特殊に個々人が実在するのである。当たり前のことだが。