Oさんへの返信

何もかも一遍にできるなんてことはないのだから、Qを実現しただけでよしとしなければならなかったのかもしれません。けれども柄谷さんもNAM会員も、そうは思えなかった。

一方Qを実現したからといって、それが何だ、という考えもあり得ます。
理論的な小難しい話もあったけれども、私が感じていたのは、地域通貨(Q)を使う場に行くために、多額の円を使わなければならないという矛盾です。具体的にいえば、国分寺のカフェスローまで出掛けていかなければQは使えない。代金の10%程度がQで割引になったところで、割に合わない。また、生産者の側も、Qを貯め込んでも使いようがない。

大きな理念的な、理論的なところからいうよりも、身近で具体的な疑問から解決していく必要があると思います。私はカフェスローの人から、Qで決済したぶんは会計の帳簿にどう記載していいのかと訊かれて困りました。また、Qが地元の商店街などに導入される見込みは全くないし、仮に導入されたとしても、具体的に買い物の場面でどうやればいいのか分からない。円部分だけレジで決済して、Q部分は帰宅してインターネットで決済する? そんな煩瑣なことはできないでしょう。西部さんが上京したときに、地域の商店街などにQが導入できないがどうすればいいかときいたことがありますが、彼から答えはなかった。

Qは、インターネットショッピングやダウンロード販売には向いていると思いました。ただ、これもAmazonなり資本制企業との提携がいるし、それは相手方にも利得がなければならず、難しい。

そして結局、いろいろ考えても、Qは資本主義を一定促進するのには役立っても、それを否定したり廃棄するものではないように思えました。Qだけで生活するのを夢見る人も多かったけれど、貨幣が円でなくQだから偉いという理屈が分からない。結局、円経済で苦しんでいる人の逃避にしかならなかったと思いました。

そのように反省して、王寺さんが言ったように、一つの幻想を批判するのに他の幻想を持ってくるのはよくない、とも思いました。具体的にはLです。結局Lは具体化しなかったのですが、柄谷さんとしては、LETSを断念する、NAMの原理の無効性を確認することができなくて、虚勢を張ったというか、Qは駄目だがLなら意味があると強弁したように思います。私がいやだなあと思うのは、そのとき柄谷さんが、Lはマルクス資本論』で根拠づけられている、などと言ったことですね。悪しき理論中心主義というか、だからどうした、というか(笑)。そしてNAMの多くの人はその理論主義に乗っかった。それをみて私にとってNAMは意味がなくなりました。いやなものを見たというか。例えば松本さんは、それまで柄谷さんに批判的だったのに、豹変して西部さんの人格誹謗を言い始めた。人間そんなものだといえばそれまでですが、ブルータス、おまえもかという感じで(笑)。それじゃ革マルと同じだよというか、独善的な理論と組織防衛のためにはどんな卑劣な言動(実践)をやってもいい、という原理にしかみえませんでした。よく倫理などと言えたものだと。NAMは生井さんや松本さんなど最も優れた人達も柄谷主義だったんですね。彼らはNAM解散後、『トランスクリティーク』の論理を推し進めて「リクエスト・メイド・システム」を発案しましたが、これも具体化したという話を聞いたことがない。

http://www.tcxpress.com/ango_03.html

他方私も、いろいろあって、全ての運動からの引退を余儀なくされました。特に何も実現できなかったという点では彼らと同じです。共産主義の理念についての書評を送っていただきましたが、私には共産主義が「可能」であるのか、「現実的」になれるのかが分からない。
ドゥルーズがカントを批判して、カントは「可能な」経験の諸条件を探究したが、自分は「現実の」経験の諸条件を規定するのだという意味のことを言っています。ドゥルーズのいう現実の経験とはスキゾフレニーであり、死の経験であり、芸術創造であるわけですが、それはいいとして、同型の批判がNAMにも当て嵌まる。『可能なるコミュニズム』、『NAM原理』、『トランスクリティーク』は「可能なる」共産主義の諸条件を数え上げたが、「現実の」共産主義の諸条件を規定しなかった。一ついえば、銀行など金融に関する考察が全くなかった。Qファイナンスという発想があったけれども、いつまでも「保留規約」のままで、現実には機能しなかった。また、山城さんがいうように、生産という視点もなかった。

現実の共産主義とは何か。それはかつての現存社会主義と同じでないことは確かでしょうが、具体的にいうのは難しい。解放なり革命のイメージを持つのが難しい時代であることは確かでしょう。