教育論

前のエントリーを書きながら思ったのだが、詰め込み教育(偏差値教育)とゆとり教育とが振り子のように政策的に揺れているが、どちらも一長一短であり、どちらが良いと一概に決められない問題だと思う。すが秀実さんなどは、偏差値教育擁護だが、教育される子供の身になってみれば、それは辛いだろうし。
それで思い返すのは、NAMで山住勝広らがニュースクールというフリースクールをやっていたわけだが、柄谷行人の方針もあって「徹底的に優秀な子供を育てる」、落ち零れではなく吹き零れを育てるという方針があったのだが余りうまくいかぬまま閉鎖になったことだ。そもそも何をもって優秀とするのか分からない。学力(偏差値的な意味で)だろうか? それも余りに一面的に過ぎるように思うのである。
といって昨今もてはやされている「生きる力」や「人間力」などはもっと曖昧な概念である。それを育成するなんてできるのか。また英才教育や子供の頃から株や経営をやらせるという発想にも疑問である。
教育論はその社会を映す鏡である、と言われる。学力低下が叫ばれる日本の教育は、日本国家自体の先行き不安の反映なのだろう、と思う。だが、詰め込み主義教育(偏差値教育)を復活させることで、負担・皺寄せが子供達にいかないか危惧する。
ちなみに話が飛ぶが、学力低下というが、私などもゆとり教育以前だが学力低下していた。というのも私は高校では音楽コースを選択しており、数学や理科の代わりに音楽の授業を受けられたからである。理数系が全く駄目だった私は、当然音楽の授業を選択した。また、大学入試も、私立メインだったので5教科でなく文系3教科での受験だった。だから、今もって私の数学力や自然科学の知識はお寒い限りである。でも、それでも何とか生きているし、音楽コースを選択したことを後悔してはいない。
まあこういう人もいるってことで。